番外編「冥加者」


さあ 風よ、吹け。

















最奥の奥の奥



広がるは
多量の骸の山と
鼻を劈く、噎せ返る様な血煙


禍々しい紅の狂宴



その中心に立つ者は
どんなに猛悪な魂だろうと思った



だが、刀を翳したその先にいたのは




現世の服装をした、少女




愕然として目をみれば
最早彼女の心は
此処に無いことを知る




生に縋る獣のように
刃こぼれだからけの刀で




この細い少女の身体の何処に
そんな力が残っているというんだ










ああ



そうか─────





知らぬ間に動く身体
少女を抱き止めれば



何故か感じる



自責の念





「…ッタシ……死に…たくない……ッ、はぁっ…、はっ、助け……て─────」




渇ききった茶の瞳から流る
一筋の涙




理由は無い



ただ   ただ





魅せられた。







【流星之軌跡番外編(短編集)B:「冥加者」〜前編〜】





何と言うことはない。
ただ、自責と魅了に理由はあったのだと思う。


死んでいるのに死んだ記憶がない魂魄。
不慮の事故等で死に、その記憶がない魂魄というのは確かにあるが、
それらは絶対に現世を魂魄のまま彷徨う。
尸魂界に来るには、死神の魂葬と成仏、未練を絶たなければならないのは確かだし、
過去にその二つ無しに魂魄が死んだ記憶無しでこの世界にやってきた事例はなかった。



いわば、彼女は稀少種。
研究に熱心な涅だ。
どうなるかなんてとうにわかっていて、




『わからない・・・が、どうしても気になるんだ。あのまま・・実験体にしてはいけない』



そう言ったことが京楽に伝わればすぐに冷やかされたくらいだった。


いやでも、伝わってある意味良かったのかもしれない。
こうして彼女の元へ尋ねることに格段な配慮はいらなくなったのだから。理由は、わからないが。
わからないが、ただ放って置けなかった、彼女だけは。


名前も知らないのに放って置けなかった、というのは良い奴も良い奴、というかむしろ世話焼き
といったところなのだろうが。




それでも良い。
ただ今は、何故か無性に彼女の身が心配でならないのだ。





「失礼。例の少女に面会願いたいのだが…」

「…………」



静かな外観に巨大な門。
こんなに寂しくて閑散とした隊舎という名の研究塔に、今彼女は実験体として『捕獲』されている。
その有無言わぬ楼閣の門番は浮竹の顔を見ると、明らかに顔を顰めながら門を開けた。


恐らくはこの前、実験体としての彼女が取り乱した時、おとなしく引き渡さなかったのが原因だろう。
だが、そんなもの知ったことじゃない。彼女は間違えなく、一つの魂魄なんだ。
感情の無い実験体じゃ、ない。


過去にやったことに関して後悔は無い。




「……先にお行き下さい。後から念のため、隊長をお呼び致しますので」




睨む態度を一瞥してから、直ぐに彼女の元へ向かった。














「失礼する。……」



ガラリと戸を開ければ、そこには昨日と同じ格好をした彼女が無表情でいた。



「……あっ、いや、別に怪しい者じゃないんだ。昨日は寝てたみたいだから、
 ろくに挨拶も出来なかったな‥‥」



慌てて説明を捲し立てる浮竹を前にしても、彼女はその無表情を変えなかった。
ただ前を、光の燈らない茶の瞳でぼぅっと見据えて、白い寝台に、多量の管と共に繋がれている。



「‥‥‥‥‥‥‥」



───声が、耳に入っていないのだろうか。
いや、診断書によれば、衰弱を除けば身体はいたって良好だそうだから、恐らくは脳が
知覚出来ないのだろう。


聞けば、身体は死に、魂魄として現世からそのまま召喚されたらしい。
故に彼女には死んだという事実及び記憶が無くて、しかし人間の記憶のまま血と殺戮の世界『更木』に
召されたのだという。
道徳や価値観、世界が全て現世のままで更木に降りて、生き延びてきたというなら───
──恐らく『人間のままの精神』では生きられないだろう。



だから、今の彼女の心や精神は崩壊してしまっている。
出会った時のように獣のように対峙する体力は実験によって残されてはいなさそうだが、その代わりに
何の反応も返してくれなくなってしまった。



「初めまして。一応、ここの世界の軍隊‥みたいなものの一軍を担ってる浮竹十四郎という。宜しくな」



こうして、名を紹介しても何の反応もない。
もしかしたら自分が存在していないのではないかと錯覚するくらいの反応の無さ。



「…………」



せめて手でも握って安心させてやりたい。
だが、昨日の一件を思い出すとそれも叶いそうになさそうだ。
万が一また何か起これば面会は叶わなくなり心労は増える一方だろうから。




諦めて、しかし目は彷徨って少女を見つめた。
すると、着物の襟からふと覗く、白い肌から鈍く変色した赤を見つける。





浮竹の顔が、悪い予感に青ざめた。





『実験体には、するな』




昨日の搬送は、緊急看護だった筈だ。
実験体にはするなと、そう力の限り叫んだのに────。



「また………何かされたんだな‥っ」



あれほど気をつけていたのに、急いで管だらけの彼女の腕を上げて裾を捲ると、そこには昨日には見られ
なかった新しい針跡や検体印が捺されていた。
新鮮な柔肌に残る赤黒い跡は容赦なく、そして生々しい。



「こんなに……‥っ!…くそっ、涅、何故─────」




だらりと垂れた骨の突き出した腕を見つめながら呻くと────その時、先ほどの門番が呼んだであろう涅が
戸を開けて悠々と部屋に入ってきた。



「──……調子はどうダネ、零式。まだ良好カナ」



こつこつと踵を鳴らし、やや声をうわずらせながら近付いてくる。





────そんな彼を締め上げたと知ったのは、後ろからついてきていた副官である彼の娘、
涅ネムが諫める声を上げた後だった。





「────ふざけるのも大概にしろ‥‥!何が『零式』だ、『良好』だっ…!
 実験体にはするなと、言った筈だろう!!」



腰の刀を抜こうとするネムに手をふりながら、涅は悪びれもせずに浮竹を笑う。



「マァマァ、乱暴な真似は止しタマエ」

「‥‥‥‥」

「彼女がまた驚いテ、壊れちゃうかも知れナイヨ?」

「‥‥‥‥っ」





仕方なく握り締めていた着物を離し、その代わりに睨み上げた。
しかし涅は格段それに気を留めようともせずに乱れた襟元を正す。


その仕草が、態度が、全てが脳に熱を運んだ。



「‥‥っ昨日のことは、俺が彼女を目覚めさせてしまったから俺の過失だと、百歩譲ろう。
 しかし、実験体にはするなと伝えた筈だ。‥‥もう……二度と‥‥‥するな‥‥っ」




涅の白い指が、襟元から離れて今度は目がかち合った────。







「命令ダヨ」





浮竹の目が見開かれる。




「コレは正式な命令ダヨ、浮竹。考えても見タマエ」






そのまま冷たい金色の瞳に引き寄せられ、身体が衝撃に固まった。



「零式はその存在の特殊さも興味を引くところではあるガネ、
 最も興味を引かれるのはそんな陳腐な事じゃあナイ」

「……………」


「“特殊霊圧”ダヨ」



公式命令?


特殊霊圧?





浮竹の頭で何度も言葉が反芻する。



冷たい汗が、流れた。




「ドウヤラ零式は少々特殊ナ、森羅万象の心を読み取れる……いわば千里眼の能力を持っているラシイんダヨ。
 恐らくはコイツが持っていた斬魄刀の能力だとは思うのダガネ。
 ………それにしても名前を忘れてるんだろうガ…全く」


「…………」


まぁそんなことは置いといて、と涅は目を細めながら天を軽く仰いだ。



「神は都合良くコイツの記憶を消してくれたようダヨ…。コイツが解放した斬魄刀の名が知れナイのは少し残念ダガ…
 …まぁソンナコトはどうでも良いンダ」


「……………」


「それを昨日のうちに四十六室に報告したヨ。そうしたら下ったンダヨ。『記憶喪失ハ好機ナリ。今コソ零式ノ能力ヲ
 研究セヨ』ト………!!」



だから、公式の命令だと。涅は恍惚とした笑みを浮かべながら言った。

更木からの精神的苦痛を一身に受けた彼女は、十二番隊に着いた時には心を閉じた。
もう凄惨な光景を見なくて良いように。また、思い出さないように………だから、昨日以前の記憶は封印されてしまった、と。


そしてそのことを知った四十六室は直ぐさま彼女を研究しろ、と─────。




下された命令の惨さに何が何だか、わからなかった。
端からみれば最もな理由。
浮竹も、何も知らなければこの命令を受諾出来ただろうが、しかし───彼女の涙を知っている今の彼
にはそれは出来なかった。



だから、何が何だかわからなかった。




ただ、わかるのは───────。







「サァ、零式。血液を採取シヨウ」






この男を、止められないということ。









※※※※※※






少女が検体として毎日実験をされることが日常となった。
四十六室から下された極秘命令に、哀れだと思う者はいたが最早日常になってきていて。



この一週間程、自分の体調が心労に、日に日に弱っていくことなんて頭になかった。
慣れてゆく日常など、浮竹の頭にはなかった。
どんなに面会を渋られても、元々細い身体が日に日に痩せてゆく姿をその眼球に焼き付かすことになろうと、
足は止まらなかった。


確かに感じる自責と魅了の念。京楽にはこの異常とまでいえる執着ぶりに酷く奇妙がられたが、そんなことは知らない。



ただ、彼女を笑わせたいと。




そう思って、毎日通った。





「今日は今日で、京楽はまた仕事を放って……何処ほっつき歩いてたと思う?………見世物小屋だったんだよ。
 全く子供じゃないんだからたかが珍獣ごときで嬉嬉として逃げ出さなくてもいいのになぁ」



出来るだけ命令である実験のことには触れずに、笑顔を振りまいた。
こうして自分が笑っていれば、いつしかかたくなな彼女の心も解れるかも知れない。




「その珍獣っても…どうせ現世で話題になった捏造怪獣の見よう見真似で作ったやつだろうさ。
 だって名前が“ヨッシー”だぞ?明らかに一文字変えて、珍獣は動物を工作したとしか思えん……!
 それなのにアイツは『本当にいたんだ!』って目を輝かせて………全く仕事もせず良い客だよ……・・・なぁ?」




笑いもせずただ前を向く少女に、浮竹は無償の微笑を投げ掛けてやる。
浮竹の喋り声だけが、小さな窓から吹き込む風に流されてゆく。



人形みたいな彼女に、それでも、後悔はしていない。




「って、気付けばいつも最終的に愚痴になってるな、すまん。………楽しい話は………………」




言葉が途絶え、俯く浮竹の耳を風の音が掠め、部屋の中で存在を主張するように鳴り響く。
そんな見えない皮肉屋を睨むようにして顔を上げれば少女に目が向く。



「……あ」


見れば強めの風に少女の艶やかな黒髪がなぶられて、顔を隠してしまっている。
ややぼさぼさとした黒に隠されてる様子といったら何だか可愛い人形のような気がして。
くすぐったい感触すら感じないのかと苦笑しながら浮竹は彼女の頬に掛かった乱れた髪を払ってやった。




「…………」






─────ざわついた。




風が、なのか。
それとも自分の心が、なのか。





それとも────










彼女の心が、なのか。










「………………………」


「………………………」




こんな時に限ってやはり皮肉屋は静かだ。
せめて流れてさえいれば気も紛れただろうに────静寂だけが、少女の表情と進撃に向き合わせた。



漆黒を払った横顔からは、やつれてはいるものの───少女には似合わない色…いわば美しいという色が滲み出ていたのだ。
いつもの表情とは、どこか。
どこか微妙にだが、違う気がして─────
どうしようもなく身体が固まった。




無表情なのは確かなのに、それなのに何処か華が咲き綻ぶような色を発する。
瞳はまだ鈍色なのに、奥底に微かな光を蓄えているようで。








固まった。







────ザァァアアッ



「っ!」



しかし、皮肉屋は皮肉屋で気紛れで。




すぐにまた吹き荒ぶ。






反射的に、彼女の頬から直ぐさま手を離してしまう。





「まっ、窓!窓ォーっ!!か、風が凄い……っ!しっ、閉めなきゃな…!
 ……うおー、飛ばされる飛ばされる。台風かーっ!?」



無様なほど大声を張り上げて、目を泳がせて。
何に急かされてるのだろう。静かな空間に一人だけで舞い上がってるようで何だか馬鹿みたいだ。
ただ、彼女の顔を初めて正面に見ただけじゃないか…。





───バタンッ





・・・・・・思えば。



浮竹はようやく訪れた自然の静寂の中、急激な光の変化に目を閉じて慣らし、
口許を手でおさえながら思う。




思えば、少女の顔を『飾った心』無しで正面に見たのは初めてだったのだと。




そして、焦る。




今だって、飾った心を通してだって───彼女が哀れで仕方がないのだ。
これが、もし、裸の心で彼女を見てしまったら?







──────── 。







「ヤレヤレ、毎日ご苦労様ダネ、浮竹」



「涅────」



「そんな恐い顔するんじゃナイよ。男前が台無しジャアないカ」



「──────」



「何があったかは分からないが、何だか今日の浮竹はいつもより格段憤慨してる様ダネ」




ほら。




「何だと……!!当たり前だろう、こんなっ、こんな………見て見ろ!骨が突き出して、
 骨組みが端から見ても分かるくらいじゃないか…!!身体だって印や針で埋め尽くされて───
 実験体にしても、もう少しやり方というものがあるだろう!?」





止まらない。






「何度も言ったじゃァナイカ。これは四十六室の命令ダト。それに私の仕事の仕方は解ってる筈ダロウ?」



分かっている。





だが、裸の心は恐らく解ってない。






「まだ意識を繋いでやってるダケ、優シイのではないカネ?」





解ることはいだろう。
何故ならその時は──────きっと。







「────……気分が悪い。帰らせて戴く」










彼女が死に絶えた時。
この心に暖かな血を運ぶ鼓動が凍結する時─────。






「ドウゾドウゾ。こちらとしては願ったり叶ったりで嬉シイよ」





凍付くまでに、何か解決するのだろうか。
心は漠然と思うが、剥き出しの心はもうその時、解っていたのだと思う。










─────静かにその場を去る背には、確かな怒りが物語られていたから。












※※※※※※※











「───ぃ、…け……う‥た‥け」







嗚呼、苛々する。








少女の風に吹かれた神々しい程までの穏やかな表情を思い出す度に、自分の無力さを嘆くしかなくて。



「‥‥いっ‥!‥たけ……!?」



恐らく、少女は研究し尽くされるまで解放されないだろう。いや、研究し尽くされるまで、とは即ち死を表している
………今までで害意は無いとはいえ、涅の手に掛かった亜種はそういう運命を辿った。
自分がどうにかならないかともがいていれば、彼はせめて殺さないでいてくれるだろうか?



ああ、いや───違う。
そうさせなければならないのは俺なんだ。
なのに、書類に走らせる筆にさえも微かな力しか入らなくなってきている。



無力。




「─────っい!!」




なんて、無力なんだ。





────バキッ。





「あ…………」




もどかしさに叩き付けた竹の筆が、派手な音を立てて真っ二つに折れてしまった。
いけない、これは一応隊の費なのに、また小椿達に怒られてしまう……などと浮竹がようやく現実世界に戻って来た時、
呆れた声と共に視界が白に塞がれた。



「おいおい、お前さん大丈夫かぁ?」


「────しゅ、春水。い、いつの間に来てたんだ……」



「お前さんが筆を折る三分程前から」



驚いて見上げれば最早その表情は怒りを通り越して呆れ顔で、失礼をしたものだと自責する。



「す、すまん…」




気まずくて、視線は自然とうなだれる。
しかしそこは流石、昔から付き合ってきた京楽で、理解はしてくれているのだろう。格段気にせずに、尋ねてきた。



「またあの迷い猫ちゃんの事かい?」



「ま、迷い猫て………」



浮竹の目尻が困った様な、引く様な、そんな色を浮かべて下がった。




「ははは、診断書見る限り可愛い娘じゃないか。不謹慎ながらも、的確な表現じゃないかな。
 お前さんも随分な熱心なことだし?」


「………………」




今度は眉根が顰められる。




「‥‥何故だか分からんが、放って置けないんだ」

「あれれ、まァた我慢しちゃって」

「そ、そんなんじゃないさ‥。ただ─────……」




確かに惹かれているのは分かるが、しかしその先をどうしても言い淀んでしまう。

何なのか分からないのだ、本当に。

こればかりはどんなにからかわれたとしても、説明のしようが無い。




「……………まぁ、良いや」

「………すまん」



呻くように、焦るように目の前に立つ京楽に言うと、ようやく先ほどから頭に乗って垂れている目の前の白を
はっきりと認識出来るようになる。



白くて、柔らかそうな…そして、甘い芳香。



「…………花か?」


「当たりー」




具合が芳しくないので椅子に座ったまま、頭から退かれた花を見つめた。




「子猫ちゃんに持ってってやりな」


「…………春水‥!」




そして、机上にその白の花束が置かれた。
突然得られた友からの賛同に逆に唖然としながら、漠然と白を目に焼き付ける。



「馬酔木と白丁花‥それと、雪割一華の花束さ。丁度、俺の好きな花園で見つけて摘んで来たんだ。
 ‥良い香りだろう?」




見事に白だらけで、花のことは良く知らないので残念ながらどれがどれなのか分からないが、鈴の様に連なって
咲いているものもあれば花弁をつけて咲いているものもある。
花弁をつけている花からは甘く良い香りがして、暗澹としていた心を慰めてくれるようだ。



「なぁに、何も異論を唱えるのはお前だけじゃない・ってことさ」




それじゃ、七緒ちゃんにまた怒られちゃうからこれで失礼するよ。
後ろ背に京楽はそう言って去って行く。
子供のような悪戯な微笑をにやりとたたえて。





京楽春水という死神はいつもそうだ。
言いたいことだけ言って、さっさと消えてしまう。
流る水のように、道を指し示しながら去って行くのだ。





「春水─────‥‥‥有り難う‥‥」





できた水轍を歩むことが出来るだろうか?
こんなに十三番隊という大きな隊を纏める役のくせして、ちっぽけで病弱な自分が、正しい轍を歩むことが?




「‥‥‥‥」




だが、歩みを止めたら恐らくはそこで行き止まりだろう。
苦しくても、辛くても、どんなに無力さを痛感しても─────。











この純白の花束を持って行けば、咲くような気がした。












※※※※※



早速、あいも変わらず無表情で管だらけの床上で前を向く少女の腕に零れんばかりの花束を握らせて、
浮竹はにんまりと笑った。



「持って来て正解だったな。いやー、良く似合ってるよ」




この前とは違い、微かに開く窓から心地よいそよ風が流れ込んで来て、白い花弁と少女の黒髪を揺らして
部屋に甘い芳香が広がる。

部屋の備品類も実験服も白で、肌の色も血色が良くなかったが、それでも京楽がくれた白は彼女に映えた。
まるで彼女に持たせた瞬間に本当に咲いたように、互いに輝きを反射して、増して、爛々と喜んでいるようで。
自然と笑みがこぼれる。




「こりゃアイツはモテる訳だわ‥。良く似合うものを知ってる……」




何故か心の中で舌打ちをしながら、しかしそれでも少女に映えて仕方がないから微笑してしまう。
どうせ気のせいだろうが、少女の顔をうかがえば彼女も少しばかり穏やかな表情になっているようで、益々心を躍らせた。





「でも流石に猫じゃないよな。猫にこんな花は………似合わない」




言ってから何を言ってるんだと一人苦笑して口許を手でおさえる。
せめて人がいなかった事が幸いだ。いたら完璧に惚気ている変態のようにしか見えないだろう。
喩えれば人形に新しく買ってやった服を着せて大人の男が一人で喜んでいるようなものだ。
危ない、危ない。



案外京楽の言うことも正しいと、また心の中で彼に舌打ちをしてしまう。





「なぁ、……その、君は───」






─────バンッ!!!






自然と浮竹が喋りかけたその時───物凄い剣幕をした涅が部屋に入って来た。




「まだ名前も思い出せ無いのカイ!?昨日の実験データを解析しても何等成果無しダヨ!!
 いい加減思い出セ!!!」


「くっ、涅────」



浮竹の制止など無視して、部屋にズカズカと踏み入れ、やがて少女に繋がれていた全ての管を手でブチブチと抜いてゆく。
当然のごとく針が刺さっていたそこからは真っ赤な血が流れ出すが、当の本人は気にしすらしないのだろう。
彼にとって彼女は、実験体にしか過ぎないのだから。



しかし、また何も出来ない。ただ出来るのは部屋の端に寄って彼女が運ばれてゆくのを見守るだけ。

これは、公式命令。
任務に忠実な彼を、どうして止めることが出来ようか。









「今日は圧のレベルを上げるカラネ……!!思い出さないと苦労するヨ!!!」


「……………」


「オイ!!お前達何をしてるんダイ、早く運ぶンダヨ!!」



遅れて廊下に待機していた隊員達が彼女の寝台ごと実験室に運んで行った。


部屋が静かになって数秒ほうけていたが、浮竹はやがて意を決したかのように目を開くと、
血だらけの白を追いかけた。











血が、暗い廊下に転々と落ちている。







「はぁっ、はぁっ、はぁ」




道に沿うようにして縦に伸びる朱は、確かにあの部屋に続いていた。




「はぁっ、はぁっ、は‥‥」



やがてその朱が、その部屋の前で止まる。










暗い廊下の、その最奥。
最も“熱心な研究”が行われる部屋─────。








「薬剤の用意をしておけ!あと、電圧を最大にするんダヨ!!」




「───ぁあ゛あア゛ァ゛あ゛ア゛ぁア゛ァ゛ア゛ァアーーッ!!!!」






分厚い壁の中から聞こえる。
あの涙以来、初めて聞いたのが、こんな叫び声だなんて。







嗚呼、










許してくれ。





「サァ、思い出すんダヨ!!」






許してくれ。






「あ‥あぁあぁ──あぁあた、たしぃい…ぃ゛っ、しっ、し、し…死にたくな‥‥‥ッ!!死に……くな‥ッ!!
 ヤダァ゛ッ!!‥‥食べなっ、でぇえ……ッ!!ぃ゛ヤぁ゛ア゛ァ゛あアァーーーーーーッ!!!」






こうして叫び声を聞いていても何も出来ずに扉の前で立ち尽くす俺を、






「良し、頸椎注射開始シロ」








許してくれ。








「ウグゥぅう‥‥ッ!!ぅ、アァーっ!!…‥ッ!!げぇえッ………!!ひっ、い゛ぁア゛ァ゛ーーーーッ!!」






すまない。







許してくれ。






許してくれ。






許してくれ──────。














血が出る程唇を噛み締めて、冷たい床を見れば、そこには─────





ぐしゃぐしゃに踏み付けられて花弁を散り散りにした白の花束だったものが、


身を血に染め物哀しく横たわっていた。









※※※※※





床が歪む。


目の前が眩む。


気持ちが、悪い。



『いやぁあああぁあああーーーーーーッ!!!!』




少女の声は耳に響いて、こびりついて落ちない。


こうしてじっと少女の病室で待っている間も、彼女の叫びは続いている。


『殺さないで』
『食べないで』
『消さないで』
『生きたい』



頑丈な壁だから、声など聞こえないはずだ。
第一、その声に口に出来ない恐怖を覚えて逃げるようにしてここに帰ってきたのは自分ではないか。
なのに、今でも聞こえる気がする。




『殺さないで』





逃げるようにして、病室に帰ってきた浮竹は部屋の戸を開け、勢い良く閉めると力無く戸に背を預けた。
そして、何故かひどく荒くなった動悸を治めようと、直立不動のまま目を硬く閉じる。




おちつけ。



おちつけ。



おちつくんだ。




どくんどくんと脈打つ鼓動を感じる。
早くなった血は規則正しく鼓膜を押し続けている。
巡りを感じる。
冷たく濁った赤い赤い血が。



『殺さないで』




ふと───‥




俯いている顔に外から光は入ってこないから、暗闇のはずなのに、どこからか鮮やかな朱がぽつり
と落とされて、そこから滲んで波及する。




『殺さないで』




「ハァッ、ハァッ、ハァッ‥‥!!」




冷たい冷たい汗が背を、額を流れ落ちる。




今更ながら目を開ければ裏切った罪悪感はあるものの、逃げられるかもしれない。



だが、やはり一度は逃げた世界。
光を見れば、今にでもその眩しさに目を潰されるかもしれない。
そう思えば思うほどに瞼は硬くなり、同時に手が、脚が、身体が、固まる。
がちがちになって、それでもこの邪悪な朱から逃げなければと脳はしきりに言った。



これ以上その色を見てはいけない。
全てが朱に支配される前に。
逃げなさい、と。





なのに、逃れる術を知らないのだ。
逃げたのは自分。
逃げ込んだ先で、逃げなさいと叫ぶがどうしたら良い?
もう十分逃げたはずだ。
ここは静かな個室。
硬く重い個室の戸中。
その白色光からも逃げて一人暗闇の世界に逃げたのに、どうしてこれ以上逃げられる?




ああ、朱が。





『殺さないで』





朱が。





『ころさないで』








漆黒の闇を滲ませて。









『 コ ロ サ ナ イ デ 』






ついに視界が、朱に染まりきって─────世界が、弾けた。





















…朱い。



朱い。



朱い。



神経の糸に鈍い塗装が塗られてはきとしないが、確かに解る。



これは血の色。






その中に自分は立っていた。
血の世界の中心で、ぼんやりと手の平を見つめれば、ぱたぱたと落ちて来る朱い朱い、さらさらした血。




幾千の血の雨が、降り注いでいた。







『どうして』



血の霧に隠されてはっきりと姿が見えないが、声が、する。
目に流れ落ちてくる血を染まりきった羽織りで拭って目を凝らせば、そこにはあの少女が立っていた。


この雨では、彼女の白い実験服は浮竹の羽織りと同じ色のはずなのに、違った。
何枚もの白い白いきらびやかな羽織りを着重ねている。
その白にホッと安心して、思わず駆け寄り少女を抱き止めようとした。
今度こそ、助けられると。


いつの間になったのだろう。
気付かぬうちに腰の高さにまで嵩を増した血の池をじゃぶじゃぶと突き進んで、時折どろどろとした血液に
脚を奪われそうになりながらも、一心不乱に突き進んで────ようやく、延ばした血に染まった自分の指に、
少女の白衣装が触れた。



その瞬間、浮竹の顔が青ざめた。




血の雨には染まらなかった彼女の服が、自分が触れた部分から朱に染まってゆくではないか。
じんわりと、まずは触れた肩から朱に染まって、次は焦って触れた左腕から。
急速に滲んでゆき、うろたえていると今度は彼女の左胸からブシュと鈍い音を立てて血が吹き出し、滲んだ。



肩から、腕から、腰から、左胸から、絢爛清楚な白が、汚れてゆく。



「なっ、何故───!と、止まるんだッ!!止まれッ!!!」



焦って自分の白羽織りで拭こうとするが、今自分の羽織りはこの雨に塗れていたのだった。


染色はさらに悪化して、
でも止めることは出来なくて、
どうしたら良いか分からなくて、
どうしようもなくて、
成す術もなくて、
何ひとつ出来なくて、
訳もわからず、




ただ少女を掻き抱いた。



「だっ、誰か────止めてくれッ!!このままだと、死んでしまうッ!!」



最早半ば錯乱して叫んでも自分の他に人の気配はない。


助けられるのは自分だけのはずなのに、なのに染まってゆく、自分の腕の中にいる少女さえも
助けてやることが出来ない。
声を枯らして少女を引き上げようとしても土砂降りの血雨に嵩は増して、身体は虚しく浸かって地から脚を浮かせた。



「…………」



もう何も出来なくて。
何を思っているのかと彼女の顔を除けば、やはり瞳に色はないが近くで見た彼女は、明らかに激昂の色を見せていた。



『どうして』


ようやく、少女の唇が動いた。


真っ赤な血に染まって、きつい朱に塗られた鈍い桜色が、動く。



『どうして』



無表情で呟くその声は何よりも怒りを見せているようで、浮竹はせりあげてくる罪悪感にただ、




『す…す、まな‥‥っ!すまない……ッすま‥‥ッすまな‥‥‥!!』



ただ、ただ、



謝った。



何に対する涙なのかは分からない涙が確かに込み上げてくるのに、しかしそれは胸あたりで冷たく凍って流れなかった。


ついに血の水面は浮竹の首あたりまできて、背の低い彼女の顔は自分が抱き上げても、
首を上げさせていないと今にでも沈んでしまう。



謝るうちに、無情にも雨は降る。



血の雨が、ついに天を向く彼女の頭にまで達し────。








「やめっ───やめろぉおおぉおおッッッ!!!」




















にこり。





























────チャプン‥。





沈みきる寸前、彼女は穏やかに、微笑んだのだった。



































「‥ッう‥‥──!ゲホッ‥‥カ゛ハッ…────!!」



ひんやりと冷たく硬い感触を頬に感じて、自分が床に倒れたことをようやく知った。
込み上げる咳に生暖かさを感じれば、もうあの朱は追って来なかった。



「ハァッ、ハァッ、ハッ‥‥ごほっ、ごほっ……ッ!!」



起き上がるのは勿論、動くことさえ億劫で、浮竹は倒れたまま息を整える。
大きく肩で息をしながら、乱れた動悸を整える。
震える身体を抱えて、改めてせりあげてくる悔しさに硬い硬い拳を床に叩き付けて、呻いた。



悔しくて、悔しくて。



守りたいのに、何よりも守りたいのに。



不甲斐なくて、不甲斐なくて。




触れるだけなら、誰にでも出来る。




ああ、そうだ。




触れるだけなら、誰にでも出来るのだ。








「……………」




死んだように、床に倒れる。
馬鹿みたいに、汗を流して、茹だる熱さに身を任せ。




……すると、廊下から話し声が聞こえた。



「………で‥‥あの‥──は‥のよね───…」



荒ぶる動悸のせいで少ししか聞き取れないが、あの声は間違えなく少女の身の回りの世話をしている
十二番隊員の女死神だろう。
思えば彼女だけだった。
何かと実験体である現世の少女を邪険にする十二番隊隊員のなかで、いつもにこにこと世話をしていたのは。



何を話しているのか気になって、息をおさえながら耳を峙てる。




すると、そこから聞こえてきたのは────。




「いい加減面倒なのよねぇー、世話するのも。何か喋ればまだ苛めがいってもんがあるけど、何も喋らないんだから」

「本当?本当に何も喋らないの?だって貴方、零式に───」

「ええ、実験検印捺しても、さっぱり。叫びしかしないし」

「え゛っ───じ、実験検印って、あれ、針山……」

「まっさかぁ。それだけじゃないわよ。…勿論、火の中に入れたやつよ?別に針検印でも良いんだけど、
 最近苛々しちゃってね……針検印を暖炉の火に当ててから捺すの」

「うわぁ……痛そーっ」

「そうすると後々まで検印残るし、涅隊長も検査しやすいでしょ?案外効率的なのよー」







ぎり、と、硬い拳がさらにまた硬く握られた。





「でも面倒で苛々する介護も今日で終わりっ!」

「あぁ、明後日からO実験だもんね」

「そ。意識も無くなりゃ世話なんていらないでしょ。ずっと研究室の保管液に浸かってるんだからさ」

「そうだね、お疲れ様ー」

「全くよ。あっはは、私別に病人の介護士でも何でも無い研究者なんだから────」





快活に、軽やかに笑う女の高い声。












浮竹は、ゆっくりと床から立ち上がった。


















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後編へ続きます。
痛いなぁ。