第四十話「藍実食みて亞酔木煉せば―achroma―」







日の光が明け行く空に燦燦と輝きだした早朝。

たった一つしかない寝台をに貸していた藍染はいつものごとく硬い茣蓙のうえで目を覚ました。
ゆっくりと目を開ければいつもと変わらぬ、広く白く、高い天井。窓は寝苦しいために開け放った
ままで、そこからまだ熱を持たない爽やかな風が吹き込んできていて、心地がよかった。
しかし静かな居城に鳥のさえずりは聞こえない。ここは不毛の地、すべての生物はことごとく狂って
死に絶える深淵なる土地。

唯一聞こえるのは―――生活を共にしているという名の女の寝息か。




「・・・・・・?」




いつもであるならそうなのだが、何故か今日は聞こえない。彼女には霊圧は感じられなかったが、
彼女独特の「霊気乱流」はいつも微かながら感じられるのだが。

何か悪い予感がして、藍染はいよいよ身を起こした。すると途端に身体が鈍い痛みを訴え顔を顰める。
いくら下に羽毛の布団を敷いているとはいえ、それはもとより身体の上にかけることを目的としていて敷く
ことを目的として作られてはいない。容赦もなく硬い石で構築されている床は体重を受け入れてくれる
寛容な心を持ちあわせてはおらず、不自然な力がかかって肩もいくぶんか疲れていて、朝からの倦怠感
に苛々する。
そのまますべての元凶となっている女の姿を探すにもしかし、案の定―――彼女の姿はなかった。

一瞬最悪の事態が頭をよぎるが、すぐに自分で自分の考えを消した。
今までの自分の演技は完璧なはずで、完全催眠下にいる彼女が自らの思惑に気がつくことなどあり
えない。大体、脚の弱い、しかも女であるあの女がそう遠くへ行けるとも思えない。ならば、彼女が
行くところといえば―――目を窓の奥に向ければやはり、黒く長い髪を結ったの姿が、腰まで
伸びている枯れ草に埋もれながら見つかった。まだ朝も早いというのに一体彼女は、何を忙しなく
やっているのだろう。

・・・遠くから見ていても埒が明かないか。

藍染はやれやれと重い腰を上げて、庭へとつながる扉を開けた。




【流星之軌跡:第四十話「藍実(らんじつ)食みて亞酔木煉(ころ)せば―achroma―」】



重くて思わず腕は不安定に揺れてしまう。草籠の中に入っている澄んだ水はその度に壁に反射して波の
大きさを増して何度か漏れてしまうが、あまり気にしなかった。それというのも周りには枯れ草ばかりが息も
絶え絶えしており、どこに水を撒こうが同じだったからだ。とりあえずはあの初めて芽吹いた草があった場所
からはじめようとしたものの、そこにたどり着くまでに籠の中はほぼ空になっていて、は眉をハの字に
下げてしまう。


しかしだからといって簡単に諦めるではない。


懲りずにまた水を汲みに研究棟端に隣接している湯浴み場まで行ってはまた草籠に水を張る。丘の上から
遠くに見える川の力を借りたいと思うがこの距離からでもわかるほどにそこは汚染されていて、わざわざ
あそこまで危険をおかしてまで行く必要性は感じなかった。それくらいなら確実に、堅実に、ここの水を撒け
ば間違いないだろう。ここの土は随分貪欲に水分を飲み込み続けるが、いつかその喉が潤えば人と同じよう
に満足して、きっと・・・きっと、花が咲くだろう。

の瞼の裏に、かつて自分がいた塔の周辺に茂っていた美しい草花が浮かぶ。そして、疲れてきた脚を
しゃんとして、また満杯にたまった籠をゆらゆらと持ち上げてあの場所へと急いだ。早くしないとまた水がこぼ
れてなくなってしまう。しかしそう思えば思うほどまるであざ笑うかのように水はたぷんたぷんと踊って、一旦
止まることを余儀なくされてしまう。
静止しながらただ聞こえるのは遠くで鳴く蝉の声と、それに混じる自分の荒い息遣い。まったく、あの塔で運動を
していたとはいえ情けないものだとその音に困ったような笑顔を見せて、また呼吸を整えてから歩く。
一歩、また一歩。自分が踏み潰してしまったためなのかはたまたそうではないのか・・・とにかく産まれてまも
なく枯れてしまったあの草のある場所へ。
だが、そんな彼女の必死な想いなど要らないとでも詰るように、周囲の草は絡み合い、あまり大地から上がら
ない足に纏わりついた。


ぐらっ


身体の均衡を失い、また重力に逆らうことなく地面へと引き倒される―――やってくる衝撃に、は身を
硬くする。



だが、刹那身体はすれすれのところで宙に浮き、次に太く暖かい感触が腹に伝わった。続けざまにそこには
自分の体重がもろにかかって、潰された肺は悲鳴を上げた。だが、その次の瞬間そんな苦痛など吹き飛ぶ
くらいに、顔がぎくりと青ざめてしまう。


「あ・・・・・・」


倒れこもうとする自分を身を呈してまで庇ってくれた男に、顔面から派手に水をぶちまけてしまったのだ。


ぽたぽたと、まるで音が聞こえてきそうなほどにずぶ濡れで、さすがのもこれにはなんと弁明したらよいか
必死に考えをめぐらせた。しかしあいにくこんな時に限って何の言葉も出てこなくて、ただただ謝るしかなかった。


「すっ、すまぬ!! こ、これは」

「・・・・・・故意ではないのでしょう。 でしたら私がただ、様を勝手にお守りしただけなのですから、お気に
 されませんよう」

「だ、だが・・・!」

「大丈夫です、かようなこと―――」


てっきり笑顔の中に絶対的な憤りをたたえて怒られると思っていたのだが。意に反して目の前の男―――藍染は
苦笑するだけで。なにやらその予想外の反応に、無性に申し訳ない気持ちが高ぶってきて、は何か拭くもの
はないかと着物の中に入れていた懐紙を探す。しかしこういう時に限ってそれはどこかにいっていて見当たらない。
もしかして先ほどから水を遣っている最中にでも落としてしまったのか?何もできぬこの現状に臍を噛むだった
が、藍染はさして気にすることもなく、持参していた拭いで水分をふいてしまう。といってもそれもあまり大きくはなかっ
たために、まだ髪は水気を含んで体積を減らし額に張り付いていたけれど。しかし応急処置としてはこれくらいで
かまわないだろうと思う。


「それより、様。 これを」


ようやく冷静になって、彼から差し出されたものを見れば、それは水が半分以下にまで減ってしまったあの草籠
だった。素人考えで枯れ草で編んだ籠故に、隙間だらけでボタボタと水は滴って、ただでさえ残り少ない水は
おろおろしている間にもどんどんと無くなっていってしまっていた。
あわてて手渡されたそれを手に持ち、藍染の背後にあった草に水を撒く。


それから風邪をひいては大変だと作業も中断し、また二人であの棟に戻り、早い朝食となった。聞く必要もないが
念のために何をしていたのか尋ねれば案の定、昨日枯らしてしまった草や、他の虫の息の草に水を遣っていた
のだという。またいつ咲くかは分からないがそれでも、いつかの再萌芽にむけてせめてもの償いをしたいのだと彼女は
少し寂しげに笑っていた。


しかしそれから数日待ってみても花が咲くことはなかった。
それどころか、日に日に弱ってゆくのが手に取るようにわかって、の表情は曇ってゆく。一体何が悪いのだろうと、
首をかしげて植物育成の本をあさっては創意工夫を凝らす。決して諦めることなく自分の脚の運動のためだからと見え
透いた言い訳をして、強がって、意地になって。


だが、それは鏡花水月の作り出したまやかしだ。


藍染の目には確かに映っていた―――あれほど雨が降っても、一向に咲くことなどなかった草がその生命の息吹を
上げる瞬間を。


まるでが遣る水に特殊な劇薬でも入っているかのように、日に日に元気を取り戻してゆく焦げ茶の草たち。この草、
は通常であれば二、三ヶ月もしないと花をつけない。萌芽は比較的早いはずだが、こんなに短期間に、それも満足な
栄養もないこの痩せ細った土地で十数本もの新たな碧を再生、誕生させるなど―――そんなことが普通の魂魄にできる
というのか。
それだけではない。の瞳は純粋無垢それそのもののような、どこまでも遥か遠くを見通すかのような色をしていた。
加えて霊気乱流を発生させる能力、それも無意識的なそれ。彼女のことを唯一知っているとすればそれは肩書きだけで、
何もかもが得体の知れない異形の存在で、やはり薄気味悪かった。
ただわかるのは心の底で激しく燃える、紅く黒い火。それは『王族』に対する従来の憎しみの炎か、はたまた――――――・・・


嫉妬の焔か―――。



(・・・・・・まさか・・・・・・。 ・・・くだらない)


誰もかもがわからない飛躍しきった情緒の果てで、藍染は無声に唇を噛むのだった。




***





数十日後、藍染の研究棟、正午過ぎ―――。





「おお、今日はまた馳走だな」

藍染との生活に慣れてきたは、目の前に広げられた料理に遠慮なく目を光らせた。
そして手に持っていた料理に関する本を参考にしてこの食べ物は何、この惣菜は何でできているかをつぶさに検証
しては与えられた半紙に書き連ねてゆく。しかし当の本人は料理をするために記しているのではなく、ただ『料理』という
作業を記録してやはり、学習しているだけにすぎないのだが。そんな意図に気がついているのかいないのかは分から
ないが、支度を終えて席に着かんとする藍染にはこの料理の名を尋ねた。

「今日のお料理は茶碗蒸しに、松茸の冷製吸物、散らし寿司です」

相変わらず長時間一人で起立することができないの手をとって木製の椅子に座らせ、彼自身もようやく席に落ち
着く。彼は決して、が筆を止めるまで箸を持つことは無かった。きちんと筆の墨を綺麗に紙に捺して、硯を隣に置
いてある棚に置くまではその様子を見守るだけで、必ず彼女を優先させていた。その毎回ながらの様子にも急いで
記録を終わらせて、やや乱雑に書道用具をしまう。

そしておいしそうな湯気が透明な空気に融解しきるまえに、やはりの「いただきます」の合図で食事が始まるのだ。
そしてが一品ずつその小さな口へと食事を運び、そして満面の笑みを浮かべての「美味しい」という言葉を聴き、よう
やく藍染も箸を動かした。
今日も二人で、この料理はここが美味いや、味付けにあれを足したほうがもっと口当たりがよくなるのではないか、今の旬
の野菜は、果物は・・・毎日三回ある食事の大討論会が始まる。料理をしないながらもの学習能力故か、日に日に
指摘は的確になっていって、思わず聞き入る時間も増えていった。

しかしこう議論ばかりも疲れてきて、今日はこんな本を読んだだとか、庭園の現状報告だとか、時にはに求められ、
護廷十三隊で起こったことであるとか、ようよう話は移り変わってゆく。はそのたびに百面相を咲かせ、その様子に
ほんのわずかだが、藍染の、を見る瞳の色が柔らかなものになってきている気がして―――彼女の心はその度に、
喜びに打ち震えた。やはりいくら王族だとはいえ、同じ魂魄という存在であり、そこには境界もなにもない。ここにしばしの
間匿ってもらっているという負い目は感じずにはいられなかった。故に、常に厄介者だという烙印は自覚していて、しかし
長い間塔にいたには素直な感謝の表現が出来ずにもどかしかった。
自分なりに一生懸命考えて、そして沢山、精一杯喋って、そうすればいつか感謝が伝わるかもしれない。そしてゆくゆくは
彼の仕事を観察、把握し、細かい世話などで恩を返してゆければいい。藍染の優しい瞳は、その想いが少しは伝わった
証拠なのかもしれない。
そう思えば、たとえどんなに小さな喜びも何十倍にでも膨れ上がった。


長く、そして短い食事の時間が今日も終わりを告げ、片付けに入った藍染の背中には言葉を投げかけた。


「その後始末は私がやろう」


しかし、あいかわらず少し離れたところにある広い背はそのまま、優しい声音で微笑みを見せて。


「いえ、様にそのようなお手を煩わせるわけには。 ・・・大丈夫ですよ」

「だが・・・・・・」


不服そうに、もどかしそうに口を濁らせ、しかしすぐには立ち上がることが出来ない彼女は表情を曇らせ、無力にうつむいた。
すると、ふと影が目の前にやってきて、机に何かが置かれた。何かと思ってはっと見やればそれは湯のみで、やわらかい
湯気を漂わせていて。


「その食休みの茶でもお召し上がり、お待ちください。 ・・・粗茶ですが」


離れ行く手は水滴をはじいている。ただでさえ後片付けで忙しいというのにこの男はこんなささいなことにも気を遣って。



「この後、またお庭に向かわれるのでしょう? すぐに体力が底を尽きてしまわぬように、今しばらくの間お休みくださいませ」



振り向きざまにそう微笑まれては、それを否定する理由などどこにもなくなってしまうではないか。は心の中でずるい男だ
とひっそりとつぶやいて、食器の片されてゆく音を背景に、暖かい茶に口をつけるのだった。







そしてその日も、その次の日も―――藍染は仕事で多忙だというのにもかかわらず、庭の水遣りに何の文句も言わずに付き
合ってくれた。

鍛錬だと強がるに特に言及することもなく手をとっては、時々崩れそうになる身体の均衡をとってくれ、水を張るのを
手伝ってくれる。
しかしだからといっての意思をないがしろにするわけではなく、きちんと彼女が出来ることはできるかぎり彼女にやらせて、
自分はあくまでも補助する係りで。
そのさりげない気遣いに気づかないわけはなく、のやる気はその気持ちに応えるべく日に日に増していった。少しくらい
筋もついてきたようで、庭に出る時間も同様に増えてきて―――しかしその想いとは裏腹に、一向に草が芽吹くことはなかった。
毎日は朝早くに起床してすぐに窓から庭を覗き込むが、草は項垂れ背丈は縮んで・・・わざわざ観察記録をつけなくても
わかるその衰弱の様子にどうしようもなく、落胆する。しかし日が経つにつれて、時同じくして目覚めた藍染は「諦めてはいけ
ません」と慰めの言葉をかけてくれた。
初めて会ったころはなんとも厄介だといわんばかりの様子を態度ににじませていたが、最近は何か違う。共同生活をしてきて、
だんだんと友情みたいなものが出来てきたのだろうか。

・・・それともなにかこの男の心の裏には、思惑が隠されているのか。

・・・まあ、いい。
いくら人の心を探り、疑ったとて、結局は予想に裏切られるのが常なのだ。
それを食らうことはもう厭きた。だがそれから逃れる術などないというのなら、まやかしでも嘘でもかまわない。ただ自分だけは後悔
などしないよう、相手に対して真実を見せ続けるだけだ。


持ち前の前向き思考ではいつも心に翳る闇を振り払う。


長い水遣りの時間が終われば早い夕食の準備に追われ、そしてそれが終わってとっぷりと夜が暮れれば、遠くから邪魔に
ならないよう、本を読み漁る。そして横目に藍染の仕事を見ながらいつか自分が手伝ってやろうと、あの色の書類はあそこに
積んでいるのかと、また別の資料を出す時はその書類棚の種類に規則性を発見し、学び、記録する。こっそりと盗み見ている
のに感づかれそうになれば、今まで読んでいた本の分からない部分を質問し、はぐらかした。彼はあからさまな視線に何度か
は気がついているようだったが、それもなぜか追求してくることはなく、ただ彼女から訊かれた部分の文字や、文章、理論を
解説してくれて―――
その嘘の温度には心地よさを感じて、緩やかな幸福に包まれながら、やがて眠りに落ちる。



そして終に、あの日がやってくるのだった。













今日も早めの夕餉を終えて、互いが互いの仕事を思うままにする時間がやってきた。あいもかわらず藍染は机に向かって
莫大な資料と戦っていた。
一方はというと昼間の作業中、夏の太陽に汗ばんだ身体を清めるために隣接していた湯浴み場にいた。
この近辺に住民はいないとのことで、一糸まとわぬ姿を惜しげもなく涼闇にさらけ出して、しかし風呂は大変に体力を使うもの
だから座りながら湯を浴びる。
無論切ってくれたのは藍染だったが、自分で見よう見まねで薪をくべた湯はまた格別で、気持ちがいい。いくら夏とはいえ、
湯はすぐに温度を失い、気化熱によって肌はすぐに冷めてしまう。湯冷めしないようになるべく急いで『石鹸』を泡立て、身体
を清める。
藍染が現世で仕入れてきたという清涼な花の香りのついたそれが鼻腔をかすめて、なんともいえない満足した気持ちが四肢
に行き渡った。
ふと湯浴み場からそのまま続く庭のほうを見回してみれば、やはり名も知らぬ草は萎れていたが代わりに「いつか元気にして
やるから、待っててくれ」と決意を燃やし、まるでその決心を自ら奮い立たせるように勢いよく湯を頭からかぶった。白い泡が
髪を流れ、柳のような肩に落ち、容良く膨らんだ胸をゆるゆると下りながら滑らかな腹へ、そしてすっと伸びる脚を撫ぜて
簀の子を通り抜け、渇望した大地を潤す。
しかし―――何度かその作業を繰り返すうちに、少し湯にあたり過ぎたのかなんだか頭がくらくらしてきた。同時に心臓は
ばくばくと音を立て、次第に気持ちも悪くなってきてしまう。
思えば今日は一番長く日光の下にいたのもあって、疲れが祟ったのかもしれない。状態は待つほどに悪化し、いよいよ
目の前が真っ暗に染まってゆく。いくら座っているとはいえその姿勢すら維持できなくなって、視界が揺れた途端、
意識はそのまま途切れるのだった。








































「・・・・・・ん、・・・・・・・う、ぅ・・・」





 ―――・・・や。



 お前は私たちの一縷の光。



 おいで、おいで。 なにもしないから。




( でも、あなたたちはそうやって わたしを )





 何れ肉壁は剥れ、鮮血がお前の下肢を染め上げる。


 そうしたら、お前を捧げるんだよ。


 

( ほんとうに すきなの ? あいしてくれて、それが )




 天壌眷恋す あないとしや。


 お前の名は、


 何を恐れる、悲しむ、哀れむ。












 お前ノ宇内ハ栄光に満ち満ちて眩しいトイウのに。












( わたしは いる なら おおくはのぞまないよ だから ねえ、きいて )



 サあ、此方ニおイデ・・・。



( おねがい・・・ おねがい おねがいだから きいてください ねえ、きいて―――――― )







  オ   イ   デ   ヨ   、   『  ガ       







「―――っ!!」




頭のなかで、ぞっとするほど白い手が自分の首を鷲掴んだところで、ようやくは目を覚ました。しかし相当夢見が
悪かったらしく、すぐに現状を飲み込めず、思わず身を起こして胸を掻き毟って咳き込んだ。


「ッ! げほっ、ゲホッ! ・・・う、う・・・ぐ・・・」


一体なんだというんだ。何回か身を折ったが、ようやく咳きを押さえ込んで、代わりに空気を吸って、先ほどまでの光景
を思い出す。瞼に映るのは聞いたこともない誰かの声と、やけに白く、しかし広い空間。その色は本当の白で、どこまでも
広大で永遠を思わせるほどで、今でも思い返せば底のないような絶望感にかられて身震いしてしまう。夢の内容を思い出
したいがしかし、このままだとまた気分が悪くなりそうで、はようやくゆっくりと目を開けた。そしてだんだんと視界は
はっきりと定まってきて、五感が正常に機能しだした。

様、どうなさいましたかっ」

「あ・・・・・・」

背を擦るように自分を覗き込んでいたのは最近になって見慣れた顔―――いや、正確には違うか。最近になって、という
言葉は過去に経験があってこそ使えるもの。今の自分にはそんな言葉を使う資格などないというのに。
それなのに、と―――の心は一杯になる。
目の前の男、藍染は眉をひそめながら心底心配そうに様子を伺ってきていたから。


「いや・・・・・・。 な、なんでもない」


弱弱しく呟いて、片手で藍染を制する。すると藍染は一瞬渋ったが、すぐに体勢を戻して、寝台に座るに今までの
経緯を話し始めた。



様のご帰宅が遅いもので、湯浴み場に参ったところ・・・昏倒されておりましたので・・・その、急ぎ連れ帰ったのですよ」



胸にまだあの夢が閊えていてどうも気持ちが悪い。無意識的に胸を掻けば、指先に布があたって。そしてようやく何か
言い難そうにする藍染の様子に感づいた。確か意識を失ったときは自分は裸だったはず。・・・ということはこの浴衣は
彼が着せてくれたものなのだろう。故に、目線を外しながらおずおずとしているのか。
・・・案外初心な奴なのだな、とぼんやりとほくそ笑めば少しずつだがあの夢も記憶のどこかへ行ってしまうようで、だんだん
と胸がすっとしてきた。

涼しい風が窓から吹き込んできて、はその温度を味わう。ひとつ、深呼吸をして、そしてふと見回せば―――藍染の
仕事机には未だ多量の文書類が所狭しと積まれていて。・・・中には印が捺されている、すなわちもう処理の終わったもの
もそのままになっていて。


「なんだ、まだ終わってないのか」

「え、ええ・・・。 途中、貴女様のことを・・・助けに入ったわけですし」


言いよどむ藍染をほうっておいて、はあるひとつのことを思いつく。
確かにまだ身体はだるいが、何もしないと折角消えかけている先ほどの悪夢が再び、心臓を掴みそうで、怖くて。気分
転換に手伝いを思いついたのだ。
大丈夫、先日からきちんと学習しておいたのだ。おそらくあの印が捺された書類は壁際にある棚の二番目の引き出しだ。


「よし、手伝ってやろう」


「・・・・・・」



のほんのりと桜色に染まった唇が弓なりにつりあがり、美しく微笑む。ふわりと過ぎ去った時に香るのは清廉な華の香り。
抜け出るときにちらりとみえる、無防備な胸にかかる塗れたきつい黒髪、そして陶磁器のような滑足。
ああ、もう、使命などどうでもよくなって。



、様」



くん、と腕が何かによってつかまれる感覚がして、一体何事かとは後ろを振り返った。
の透き通るような白い手は、がしりと野蛮に掴まれていて―――無論、そんなことが今現在出来る相手は一人しか
いない。
しかし、はじめて出会った時から彼はあくまでも紳士的だった。それはあまりにもうやうやしくて、下手をすれば畏怖とでも
呼べるような、そのような態度で、故に微笑みは確かに近くにあるはずなのに、遙か久遠にあるような、そんな―――。

最近はそうでもなくなってきて、何か違和感を感じてはいたが、それはきっと良い方向に物事が進んでいるのだと・・・
そう思っていた。

だが、この男の掌の力は今、とても粗雑に強い。
不思議に思って静にしていれば、どんどん力がこもって、爪が柔肌に食い込んだ。

「・・・痛っ・・・!」

思わずは悲鳴を上げた。
そして、一体何事かと藍染に詰め寄る。


「な、何をする惣右介。 痛いぞ」


そんなにも書類を弄られるのが嫌なのだろうか。そんな暢気な思索が頭によぎるが、しかしそんな小さなことでこの温厚な
男が怒るだろうか。
けれど、目の前で俯く男の顔は窓を背景に入ってくる月光の逆光に覆われて見えない。しかし、最早本能的ななにかが、
の脳に確かに不和を伝えていた―――。


「・・・っ痛いと言っているのがわからぬのか!! 無礼者、離っ・・・・・・」


声を荒げた、その瞬間だった。


顔を再び上げた男の色は、青い光に照らされてなによりも―――





















欲情に絆されていた。


















「いやっ、だ、・・・やっ、やめ、惣右―――・・・やめろっ!」



何かが危険だ、早く逃げろ、その男から離れろと叫んでいて、その声の正体が一体何なのか分からないままに、従って
束縛を解こうともがいた。痛いほど食い込む爪を力の限り振って、しかしその反動を利用されて―――ぐん、と身体は不
自然に浮き、藍染の胸元に抱き寄せられてしまう。
刹那見た藍染の瞳に、最早あの優しい光など宿っていない。暗黒に彩られ、腕は容赦なくの腰を拘束する。






一体―――一体どうしたというのだ。

あの―――哀しいくらいに冷酷であれと微笑む、あの男は何処へいったのだ。






焦燥に駆られるの抵抗など、屈強な男の前には塵に等しい。呆然と固まる彼女の様子に安心したのか、それとも急
いたのか。目の前の男はそのまま、顔を近づけてきて―――。








瞬間、の目の前に先ほどの夢が散らばった。








おいでおいでと、聞いたことも無い人間の声は確かに自分の『名』を知っていた。








その人間は死人のように血の通っていない手で―――の手や脚、首を撫ぜ、娶(からめと)る。








這い上がってきた愛情の楔は唇から肺を占領し、息苦しさに脊椎反射する喉をしかし、制圧し咳きも
出来ない。








何かがどろりと下肢から落ちた気がして見れば、それは・・・真っ赤な、真っ赤な、暖かい、血。









乙女を捧げよと、しきりに『名』を囁いた。















「嫌だッ!! さッ・・・触るな・・・っ、私に・・・触れるなぁぁあッ!!」








口を塞がれそうになった瞬間と、血が白い床に落ちる幻想が重なった時―――なんとか激しい抵抗をすることが出来た。
そして急に暴れだしたは緊縛を解かれた勢いのまま放たれ、急発進した身体に弱った脚はたまらず縺れ、派手に
書類の海に突っ込んでしまう。ばさばさと乾いた紙の音がして、次に身を起こせばぐしゃりと紙が捩れた音が耳にその存在
を告げる。
はっとしてそれを見上げて、そしての目は驚愕に固まった。




「逃げる場所など・・・・・・どこにもありませんよ、様」

「・・・・・・・・・」

「ここには私と貴女、ふたりきり。 助けを呼ぼうなどと思わぬことです」

「・・・・・・・・・」



背後からぬっと影が伸びてくる。
先ほどの男がすぐそこまで迫ってきているというのにしかし、その本の切れ端から目を離すことができない。嫌でもすぐに走る
ことに慣れた瞳は目の前に記述されている文字を認識し、高速で脳はその意味を吐き出し、そして統合、結論を導きだす。





―――そこに恐怖はなかった。





ただ、排出された感情は純粋な疑問。

だが悠長に待ってくれる相手でもない。すぐに背中に両手を拘束され、引き倒され、仰向けにされる。

狂ったような恍惚とした微笑を滲ませるのは無論、あの男。ちらりと光ったのは無慈悲なまでに脅迫的な、刀。男はもみあい
の反動で肌蹴たの肢体を舐めるように妖しく眺めている。



「惣右介、お前は―――・・・」



は身体の下敷きになっている『禁』という大きな判を戴いた文献を、もう一度だけちらりと見て、問うた。










「お前は『王鍵』のありかを知って、一体どうしようというのだ――――――?」










しかし―――そんなの言葉も欲情に煽られた男には届かなかった。
机を利用し、男の腰は股を割って入って、逸るように手は浴衣の裾を暴く。重い体重でのしかかり、の後ろ手に痛みを
与えて拘束をより確実なものとして。性急かつ乱暴に、白く細い柳脚が絶望の月光に照らされる。



頬の横に突き刺さった刀に、色を亡くしたの横顔が映った。

























************

*ついに大台の40話でした。いかがでしたでしょうか。
 もう連載も何気なく百の半分にいっちゃうわけですね。最初は文字数少なかったのに最近はめっきりびっしりで、読者様的
 にはいかがなのでしょうか。ちょっと不安です。
 でもさらっとで長編は終わらせられないので、下手っぴでもがんばって雰囲気だせるように地の文を書きたいと思います。
 ん〜そろそろ短編のほうも書きたくなってきました。でもそれは、第二主人公()にちょっと満腹になって、第一主人公
 ()渇望病にかかったら、もしくはうっきー渇望病になったらですね。笑
 まだの死神決意編を書いていないので、次はこれを書きたいと思っています。うっきーのお話は明るいからこその後の
 ダークさがあって、個人的に好きです。

 無論、藍染のお話もですが。笑

*題名「藍実食みて亞酔木煉せば」シリーズの第一話目です。そのサブタイは「achroma」。意味は「無色」。初めての外国語
 タイトルです。
 
 これには理由があるんです。実は。
 
 共通ルート、藍染ルートは漢字タイトルと決めています。では残されているのはそう、浮竹隊長ルートなんですが、彼のほうは
 無難に英語のタイトルがつきます。今回のタイトルの題字はスペイン語。本誌破面編に多用されている言語ですね。
 では何故スペイン語なのか・・・。それはこのシリーズをゆくゆくご覧になって下されば分かるかも・・・です。笑
 またそのお話を書いたときのあとがきにでも書きたいと思います。


*さて〜〜今回はちょこっと転機があったように感じますねぇ。でもこの藍染様、きっと連載に詳しい方は違和感を覚えてい
 たはずです。その違和感は一体どこから生じていたのか・・・?

 そこを考えていただくと、何かに気がつくかもしれません。笑
 なんてアバウトなんだろう。

*さて、次回一体第二主人公の様はどうなってしまうのでしょうか。
 また長くなってしまいそうな気がぷんぷんしますが、お付き合いくださるとうれしいです。笑



 それでは。




15:09 2010/03/19 日春 琴