第四十三話「卯酉万葉星」



どうしてだ。


どうして、こうなってしまったんだ。


数刻前までの、ほんのささやかな、つつましやかな幸せは一瞬にして災禍の奈落へと突き落とされた。


胴体が中途半端に切断されて、痛みにうめく様は芋虫のよう。肺も食いちぎられて、声など出ないから
唇だけを必死に動かして
いて、その度にごぷごぷと真っ赤な鮮血が血の滝つぼに落ちてゆく。さながら、芋虫の血池のようだ。


違う。君はそんなんじゃない。
そう、そんなに綺麗に微笑むことができるのに、それなのに「逃げろ」なんて、酷な冗談だ。


怖くて、でも悔しくて、それでも、この娘だけは守り通さなければ。


ふと、この村を消炭と化そうとしている原因であろう虚が―――彼女に蔭を落とした。


刹那――――――走った。

ただ、ひたすらに。泣きじゃくって、彼女の名前を連呼するこの娘を落とすまいと担いで、ただ
ひたすらに走った。
気がふれたかのように、狂ったように、獣のように走った。


やがて視界に自分とは逆方向に進んでゆく黒衣装に馬酔木の腕章を巻いた軍勢が映りこんできて、
ようやく救援が来たことを知った。
まさに決死の思いで小高い丘までたどり着いて、ふと村―――正確には「だった」場所―――を見れば
黒煙、地獄のような焔に、あちらこちらできらめく刃の光。黒、赤、白。その色だけが、我々がいた幸せの
地の存在を物悲しく彩って。
忘れもしない。その中に立つのは彼女を奪った虚。今はそのどでかい額に大きな十字の傷を負っている
その憎き虚が、十数匹の仲間を引き連れて、我々の村を未だにたやすく蹂躙している。

遠くでこの軍を統括しているであろう死神の声が響いてきた。

「このまま鏡花水月で一気に本丸を叩く! 皆、幾十の大虚に臆するな、我に続け!」

男たちの武者震いの怒号とともに、白い色が、再びあの村に加わった。


そのなかで、己の無力に砂を噛む。呆然と立ち尽くす。涙すら出ない。そしてあの死が渦巻く炎の中へ
駆け出そうとする娘の視界を塞ぐようにしてひしと抱きしめ、ただただ何の感慨もなく絶望した。





――――――最悪な『夜』だった。






【流星之軌跡:第四十三話「卯酉万葉星(ぼうゆうまようぼし)」】





「進みが遅いぞ、惣右介」


―――数日後、藍染の研究棟。相も変わらず、二人の不思議な共同生活は続いていた。
藍染の本当の目的、そしての生い立ち。重大な事実が明らかにされたのは確かだったが、それでも
生活には何の変化も訪れなかったのである。


「・・・先刻処理済みの書類を渡したばかりだ。 そんなにすぐに次の書類全てに目を通せると思っているのかい」


この女は自分の立場をまるでわかっていないようだ。―――いや、分かっているからこそのこの行動か。
そう思えど、あまりにもずうずうしくて辟易してしまうのだ。
大きなため息とともに今見ている未処理の文書をばさりと翻せば、なるほど確かにそうだな、とひとりごちて
それならばと身を乗り出してくる。
・・・今度は一体何を思いついた。藍染のの行動に対しての意識は、最早呆れの域に達していた。


「それなら私は今まで引き出しに眠っていた文書を再整理でもしてこよう」


己の身があくまでも『捕虜』という立場であることを理解しているであろうその彼女は、だからといって臆する
こともなく、このように手伝いを自らかってでる。ただ、それは今まで自分ひとりで何もかもを管理していた藍染に
とってみれば迷惑な行為でしかない。放置しようものならなんのためらいもなく彼女は瞬く間に書類を整理しだす
だろう。故に、放っておきたいというのが本音ではあるが、制さずにはいられない。




「ん、なんだ」


振り返って見てみれば、もうすでに彼女は桐の引き出しを無造作にあけて、ごそごそとなにやらとやっている。
少し口早になりながら、仕方なく藍染は指示を出してやった。


「・・・戦況報告書は一番上の棚、二番目の棚には・・・」


が、


「ああ・・・わかっているぞ。 二番目の棚は隊士記録簿、その順番は入隊順ではなくて能力別に仕分けておくのだったな。
 で、三番目の棚には・・・・・・」


苦笑されて次々と的確な仕分け場所を当てられてゆく。この女の能力は即読解力だけだと思っていただけに、意外だ。
ごそごそとやりながら、しかし藍染の沈黙を不思議と思ったのかは様子を伺ってくる。


「・・・このくらいしか娯楽が無いのでな」


感傷的な微笑でもって微笑まれれば、もう干渉しない。彼女の言葉は短かったが、そこにはまたあの大鎌が刃を
輝かせながらこちらを伺っていて藍染の心をまっすぐに見つめてきた。目をそらす間に、そういえば、と藍染の脳裏
にある可能性が浮かんでくる。彼女はあの邂逅の日から、自分の行動をじっくり観察をしていた。それは行動の癖を
覚えこませたあの男にここを見張らせていた時も続いていたはず。
そして自分が見ている限りあの桐箪笥に彼女が触ったことは今回が初めてだ。だとすれば・・・あの短期間で書類の
保管場所や規則を理解把握したということか。


「・・・・・・・・・」


・・・まあ理由がなんであれのその把握力は目に留まるものがある。少なくとも自分が
一番心配していた善意の厄介という類のものにはならなさそうだ。
そのまま無言で机に向き直り、再び書類の処理にかかる。そうすれば手を止めていたも後ろで静かに作業に
取り掛かり始めた。



その後、昼ごろ―――



書類整理や、藍染の手伝いを続けていたは正午を知らせる鐘を耳にするなり、なにやらそわそわしだした。
そして今手にしているだけの仕事をさっさと片付けて、着物に襷をかけると、そそくさと外へと出てゆく。毎日昼は
筋力の鍛錬も兼ねた、庭の植物への水撒きの時間なのだ。
重い扉を開けたの眼前に広がるのは昨日と全く変わらない風景で、じっとりとまとわりつく夏の熱気にむっと
するも、その壮麗さはそれらを吹き飛ばしてくれる。それを藍染は確か、完全催眠が解けた故に見える本来の姿だと
言っていたが、まあ理屈がどうであろうがなんであろうが、枯れずにそこに花を咲かせているならそれだけで満足
だった。ただ、欲を言えばもっと、そう、この庭一面をこの白の花と草で埋め尽くしたい。そう思って、今日も飽きず
は手入れをしてやるのだ。

近くでは蝉がけたたましく命の声を上げており、崖から吹き上がってくる風は湿気をたっぷりふくんでいて服を
肌に張り付かせて、気分が悪い。しかし不思議と、嫌ではなかった。
そしては水汲み場に向かうまで、つぶさに草の様子を観察してまわった。いつか藍染も言っていたが、
どうやら自分は即把握が得意技なのだそうで、故に物覚えがいい。この場所にあった草は昨日はどんな様子
だったか、今日の状態との微妙な差異に気がつくことが出来るのだ。
それ自体に無駄はない。だからこそ渇いた土には水や肥料を多めに与え、潤っている土には少量のそれを
最短時間で与えることができる。
だがしかし、そんな力を持ち合わせている彼女にも悩みはあった。
それはこの草籠である。素人考えでの編みこみはやはり悲しいかな、お世辞にも上手とはいえず、小さな穴だらけで。
そこに水を入れればすぐにそこからこぼれ落ちていってしまうのだ。するとその滴が落ちた場所には予定していた
適切な量がどうしても与えられず、水場に近いところはすぐに腐食が進んでしまっていた。どうしたものかと悩んだ
挙句修繕を繰り返してもその穴を修復することは難しかった。

思い通りにならず憎憎しいそれにまさに水を注いで、はぐ、と腕に力を入れる。そして以前のようにこぼさない
よう、胸に抱えてゆっくりと歩を進めた。しかし予想通り、すぐに穴から水が滲み出してきて着物をぬらし始める。
やはり胸に抱えてはだめだと諦めて、また両側の縁を持ちながら再び足を進めた。
水を撒くのは奥からのほうが勝手がいい。ずんずんと、しかし水が上からこぼれてしまわないように慎重に草を
掻き分け進み、ばしゃりと草籠をひっくり返す。ばたばたと音を立てて茶の草はしなり、弾む。まるでそれが喜んでいる
声のようだ。満足げにその様子を見ているとふと、その萎れた草の中心に何かを見つけて思わず身を乗り出した。
と、なんとそこには新たに芽吹いたであろう草がひょっこりと、若い緑を大地から覗かせていたのだ。

は何かにはじかれたかのように瞬時に嬉しくなって、駆け足で水場へと戻る。そして水の勢いを最大にして、
派手な音を立てて水を張り、即座に持ち上げて、先ほどの場所へ二度目の水遣りに向かう。しかし焦れば焦るほど
中身の水は反射しながら大海原になり、やがて零れてしまった。うまくいかないものだと唇を噛めば、乱雑に扱った
ことに腹をたてたのだろうか―――草籠の一部が解けて、そこに出来た穴は上に抱えている水の重みによってその
面積を急激に拡大させた。
嫌な予感に固まる。しかし恐らく、その解けた目が箍だったのだろう―――要を失った草籠はみるみるうちにあちこち
に点在する穴を広げていった。仕方ないと思って、諦めたはその場に水を抛った。


さて、どうしたものか。
不完全な骨組みをさらけ出した草籠を手持ち無沙汰にぶら下げながらは考えた。穴を修復しても良いが、
しかしこの中途半端にあいた穴はどうやって塞げばいいのだろうか。補強を重ねてきたとはいえど、こんなに大きな
穴が開いた時はなかったもので、途方にくれてしまう。
何度も頭の中でこう塞いでみようだとか補修の様子を想像してみたが、うまくいきそうにない。


・・・考えれば考えるほど修復は難しくなってゆき、とりあえずこのままで水を遣ることに決めた。そのうち、この籠が
壊れたとしてももう一度同じものを創ればいいのだ。


そう開き直って、また水場に戻り、水を張り―――そして水を撒く。が、やはりこれでは長距離の移動は無理だ。
仕方なくばしゃばしゃと音を立てて水を零しながら走って奥を目指すも、たどり着く頃の残量は悲しくなるほど少なくて。
それでもまだこの籠は使えるのだからと自分を叱咤して、は再び水場に踵を返した。


と、その時だった。


途端に手が軽くなり、は思わず自らの手の方向を向く。


先ほどまで悩みの種だった草籠がない。


無意識のうちに離すまでに今はまだ疲れてはいないだろうから、落としたわけではないだろうが、念のために地面を
見てみる。しかし思ったとおりそこに籠は転がっていなかった。代わりに―――自分以外にできていた影を発見する。
そして何事かと思ってそれを辿るとそこには見慣れた男が立っていて。


「そ・・・惣右介!」


今まで部屋で黙々と仕事をこなしていた彼は、無言でそこに立っていて。今まで自分が探していたものをその大きな
腕に抱えながら、周囲で元気なく萎びていた草を引きちぎる。そしてそのまま器用にひも状にしてゆき、修繕が絶望的
だった穴に架けて塞いでいる。


どうして。


そう口にしたかったが、ついに言葉にはならなかった。
彼は、本性を明らかにしてから今まで、の水遣りに付き合ったことは無かった。としても、これは自分がやりたくて
やっているのだから別に手助けを頼もうとなどしたことは無かったけれども、しかし、急に、どうして。
自分は『道具』。王家一族へのあしがかりとしての『切り札』だ。最低限の暮らしを与えることは予想できるが、しかし、
この行為は彼にとって何の利益をも生まない。


・・・そういえば。


以前もこんなことがあったような気がする。そう思ってしばらく、藍染が修復しているあいだ記憶を手繰ってみる。
と、はそうだ、と思い出した―――あの日の夜の出来事を。





***



それは藍染がに本性を明らかにした夜のことであった。



一面に咲いていた白い花々。名も知らぬ草は、碧の身に白い模様を纏い、その様子はさながら初雪が降ったか
のようで思わず、の口は「綺麗」と口走っていた。
だが―――次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。目の前が心臓が拍動する度に闇に染まってゆき、いよいよ
一体何が起こったと思う前に、身体の力はみるみるうちに抜けてゆき、体勢を保とうとする意思とは無関係に
白い褥に沈んでゆく。
気がつけば痛みを覚えることもなく、ただ手足を投げ打つようにして無様に寝台に倒れていた。身体が台につく
衝撃はなかったから、ほんの一瞬だけ意識が切れたのだろう。
とりあえずこのおかしな格好を直そうと手足に力を入れてみるが、今度は闇の代わりに莫大な気だるさが全身を
駆け巡る。脚一本動かすことがまるで何か鉛の棒を持ち上げるかのようだ。これほど脚は重かったのだなと、
次第に苦しくなってきた息を漏らしながら暢気に思う。せめてうつぶせの姿勢で潰された肺を必死に膨らませ、
酸素を交換しようと意識するが、予想外に力が入らない。思えば先刻のおかしな『白い夢』もさることながら、確か
自分は夏の熱気にやられて風呂場で昏倒したのだった。そしてその後、藍染の部下に襲われ、ろくに力も
入らない全身で必死に抵抗して、本物の藍染に刀を突きつけられ、不自然な格好を取り続けてきた。その付けが
今まさにまわってきたのか。少なからず毎日の鍛錬で体力がついたと思っていたのに、実際はこんなものか。
は笑う。だが、このままだと下手すると呼吸困難に陥ってしまう。口元は布にぴたりと塞がれていて、なおの
こと苦しい。やっとの思いで呼吸を繰り返せばふんわりと鼻腔をかすめるあの男の血の匂い。酸化しはじめた
それはなんとも言いがたい悪臭となって、を一層苦しめた。


しかし、もがいていたの身体はふっと軽くなった。


「・・・そ、そ・・・す、け・・・・・・?」


先ほどまで命を生かすか殺すかの天秤にかけていた死神は徐にを肩に担ぎ上げた。酸欠と眩暈に朦朧とした
意識のなかで、前を見ると逆さになった視界には確かに彼の背がある。まるで人形を扱っているかのような乱暴な
振る舞いだったが、彼女を落とすまいとしっかりと腕は膝を抱えていた。
一体何をされるのだろうか・・・ぎい、と小さな音を立てて外への扉が開く。先刻藍染の話から推測するに、恐らく彼は
自分を王族へとりいるための人質として利用するのだろう。自分を生かしたのがなによりもの証拠だ。無用であれば、
本当に彼は容赦なくあの場で自分を斬り殺していた。
そんな冷酷な、しかし目的に素直な死神だ。
なら彼はすくなくともぞんざいな扱いはしないだろう。一瞬、外に捨て置かれる可能性を考えたが、彼が感情論で
動くとは思わない。




さまざまな思考を繰り返すうちに、ようやく藍染は目的地にたどり着いた。




やや乱雑におろされれば、そこは先ほど自分が倒れた場所―――湯浴み場で。
逆さにされていたものだから頭に上っていた血は急激に下降しはじめて、なおのこと頭がくらくらする。加えて生暖かく
ぬるついたすのこが座り込む脚に触れ気持ち悪く、そして立ち込める湯気が全身をつつみ、息苦しさに拍車をかける。
耳の奥で鼓膜を押すようにして鳴る心臓の音に耳を済ませて、とりあえず呼吸を整えていると、今まで無言を貫いて
いた藍染はふと口を開くのだった。








「脱げ」







・・・・・・度重なる眩暈で妄想が聞こえるまで頭がおかしくなってしまったのだろうか。
はきっとそうだろうと心の中で呟いて、一旦止まった呼吸を再開させた。だが―――すぐにそれは妄想などでは
ないことを告げられる。



「・・・その着物は私物でね。 全く、あの男は嗜好が狂っていて困ったものだ。
 この研究棟に長期滞在することは考慮していなかったから、ここには代えが少ない。 それを汚されてはいささか迷惑だ。
 ・・・だから、早くしてくれないか」

「あ・・・・・・ああ、そういうことなら」



ちょっと待っていろと言いつつも、少し戸惑う。この男は先ほども思考したとおり、目的に素直な男だ。おかしな意味など
微塵もないだろうし、また自身にもなかったがそれでも、本能的な恥が躊躇わせる。
だが、くらくらと揺れる視界で焦りながら帯を解こうとしてもなかなかうまくいかない。指に力もなかなか入らず、思わず
とろとろとしてしまう。そんな自分に段々腹が立ってきてしまうが、こんな状態では仕方ない。そうは分かっていても、やはり
後ろで締められていた結び目はなかなか緩まらない。



と―――。





「っ!」





がもたついていることに呆れたのか―――藍染が後ろの結び目を器用に外してくれたのだ。これにはさすがの
も固まってしまう。そのままなにも出来ずに様子を伺っていると何も言わずにそのまま帯を解いて抜き、何か事務を
行うかのような淡白さで着物も剥ぐ。様々な思考に頭は一層混乱の渦へと引きずり込まれるが、彼はなによりも
冷酷かつ冷静、聡明な死神であるという事実を頭で何回も反芻させて渦を押さえつけた。
の身に纏っていたもの全てを剥がすと、藍染は茶褐色に染まった着物を湯をはった桶に放り込み、洗う。必死に
今までの出来事から彼の真の思惑を汲み取ろうとしていると、洗濯をしていた藍染はふとこちらを向く。


「・・・洗いなさい。 見苦しい」


まるで毒を孕む白花のように甘く白く、最高級の絹のような滑らかな肌。細い肩に掛かる濡烏が一層その白さを
際立たせているかのようだ。黒い川は細くなりながら鎖骨の渓谷に流れ、ふっくらと膨らんだ乳房で止まっている。
何のはばかりもなく晒される腰はきゅっとくびれていて、尻までの曲線はいかにも女らしい。しかしその芸術作品
かのような奇跡の美しさの白は今、愚劣な欲望に負けた男の真っ赤な血で汚れていた。


わずかばかりだが、しかし確実に目を細めた藍染は、近くにあった桶を彼女に向かって放る。


「あ、ああ。 ・・・ありがとう」


藍染の刹那の苦渋―――目を細めた感情は、ただ『汚らしい』という感情がさせたものか。いや、それは正しい
かもしれないがしかし、・・・・・・。
一瞬意味の分からない間に、呆然とそれを受け取ってしかし彼の迷惑にならぬよう力の入らない手に無理に力を
こめて、湯船にたまっている湯を掬い取り、そして身にかける。ばしゃっという音を立てて湯は身体を伝い、そして
すのこの目から落ちて排出されてゆく。近くにあった石鹸に手を伸ばそうにも、今の歪んだ視界ではまた倒れて
しまいそうで億劫になる。これ以上藍染の迷惑になりたくなかった。
故に、はそのまま何回か湯を取っては頭からかぶることを繰り返した。
熱をもった湯が頭の隅々まで舐め、身体に温度を与えながら這って。たちこめる湯気は全身から熱気を逃がすまい
としていて、の視界は再び暗くなる。



しまった。



はそう思って手を止め、しばらくの間目を閉じて呼吸を整える。


「・・・・・・・・・」


何か、ため息のような音が聞こえたと思った次の瞬間―――。



バシャアアァッ!


「ぅっ・・・わッ!?」


冷水を頭上から被せられて、は驚愕に思わず目を見開いた。こんなことが出来る人物は一人しかいない。


「惣右介・・・! 一体何を――――――」


濡れた前髪から、伝った冷水が滴を落とす。はそれを気にすることもなく、いつのまにか背後にいた藍染に
睨むために振り返る。しかし、その時の藍染の行動に再びは口を噤んでしまう。

手近にあった拭いに石鹸の泡を立たせたそれで、の身体に染み付いていた血を洗い流し始めたのだ。


「・・・・・・・・・」


恐る恐る藍染の顔を見てみれば、の予想していた顔とはまったく違う顔をしていた。それは何の感情をも
映さないような無表情。自分の鈍くささに飽き飽きした顔や、苛立ちを隠した顔をしているものだとてっきり思っていたが、
その色は全く無い。むしろその無表情には先ほどの「謎の一瞬」の苦渋の色が滲んでいるかのようで、もうなにがなんだか
分からない。

とりあえずわかることは、彼は少しばかりの苛立ちと謎の苦渋を滲ませながら、自分の身を綺麗にしてくれていること。そして
少しの恥はあれど、不思議と嫌な気持ちはしない―――あの夢で見たような白い囁きや、あの男の舐めるような視線に
対して感じた生理的な恐怖や嫌悪感は感じない自分の心。


しかし物についた汚れを洗うかのような藍染の乱雑な『清掃』に、「くすぐったい」や「痛い」やら気丈に文句をもらしながら―――
されるがままに身をゆだねた。


そして長くも短い湯浴みが終わればこれまた乱暴に大きな布を一枚、頭から被せられ、そのまま再び先ほどのように担がれて、
研究棟の寝台へと放られた。痛みや衝撃に文句を漏らそうとすれば、新たな着物をばさりと投げつけられ、機会を逸する。
一体何なのだ―――そうひとりごちながら布で身体の水分をふき取り、与えられた浅葱色をした、いかにも涼しそうな着物に
袖を通した。
ちらりと藍染の様子を見れば、彼はもう既にそこにはいなかった―――恐らく、遠くの地にあるといわれる護廷十三隊に
戻ったのであろう。


(・・・私が逃走したらどうするつもりだ)


髪を拭きながらそう呟くが、でも、とは思い至る。

そして、笑う。


(ま・・・逃げるつもりもないことなど、惣右介にはお見通しなのだろうな)


それは命乞いの諂いではない。ただ単に、逃げる理由がないのだ。そのことをきっと、いや、絶対に彼はわかっている。
藍染の聡明さには思わず舌を巻いてしまう。彼はまるで神様のように、何でもかんでも見抜いてしまうかのような脳を
持っているかのようだ。彼の研究、論文、実験書、所有する書簡、思慮深さ―――この数日間、見てきたそれらは
彼の知能の高さと潜在能力の高さをなによりも物語っている。
彼に拾われて良かったと、は己の幸福をかみ締めた。そう、こんなにも賢明な存在に―――拾われて、私は幸せだ、と。
だって―――彼は、



(惣右介・・・藍染惣右介は、私の名がであるということを、知っていた)



そして、王族の者だと、瞬時に判断してくれた―――平凡な死神であれば、尸魂界に干渉しない王族のことなど知らないし、
知ろうともしないだろう。
万が一知っている者であったとしても、不貞子であるの存在は家系図にひっそりと記載されているだけにすぎない。
そのなか―――彼は、という名も、そして顔も、知っていた。知っていてくれた。
その事実が、たまらなく、嬉しい。



(しかし・・・・・・あれは何か、聡明な惣右介であってもわけの分からない、といったような顔だったな)



藍染が居なくなり広くなった棟の寝台で髪を拭くは幸せをかみ締めながら、ふと先ほどの『謎の苦渋』を浮かべた
藍染の顔を思い浮かべていた。
あれほど賢い彼でもわからないことがあるのか。


(なら、私が考えても到底わかりっこないだろうな)


布を取り去り、半乾きになった髪は、窓から吹いてきた心地のよい涼風に弄られ、軽やかに踊る。しばらくして思考に
区切りがひとつできれば、どっと疲れが押し寄せてくるかのようで、そそくさと布団に潜り込んだ。
今はいない彼が洗ってくれた身体はすっかり綺麗になって、石鹸の清涼な香りが気持ちいい。月の柔らかな光が部屋に
陰影をつけていて、深い藍は自然と甘い眠りへと誘う。
の視界を覆う闇や眩暈は完全に、取り払われていた。






***



目の前で満たされた草籠を目にしながら、は回想を終えた。
あの『謎の苦渋』は一体何だったのだろう。一度は惣右介でも分からないことなのだから、自分が考えたところで
時間の無駄だと切り捨てた考えがむくむくと湧き上がる。同時に、あの日からその苦渋を目に留めるたびに感じる、
己の中に芽生える『一の感情』。それは喜びとも、幸福とも形容できそうなものだったが、そう呼ぶにはわずかに
足りない気がした。

その二つの感情を喩うなら、『双対の感情』。藍染の見せる苦渋を部分として包括する『感情』に対し、その都度
湧き上がるの正の『感情』。
苦しくなるような、でもその反面、心が満たされ、ぬくもりを感じるような、そんな感覚。

相手のことを理解する前に、まずは己のこの不可解なものの正体をはっきりとせねばならないだろう。
そうは思う。
だが、満杯までに張った水面(みなも)に映る自分の顔は、様々な感情に彩られていて。


・・・自分の顔はこんなにも多彩だっただろうか。


身だしなみを整えるために与えられている鏡を覗いた今朝は、たしかそんなに色など持ち合わせていなかったのに。
それなのに、まるで今の表情は万華鏡のように移ろいが激しい。藍染のように無表情を気取ってみるが、すぐに
水面は風にゆらめき、まるで心の灯火まで揺らされているかのように色は変わる。
千変万化の己の感情に、はただただ果てしなく困惑する。


(惣右介も、こんな気持ちだったのだろうか)


大きくため息を一つついて、はその悩みを振り払うかのようにしてすくっと立ち上がる。


(案外、惣右介と私は似ているところがあるのかもしれない)


そして完全に補修された草籠を持ち、項垂れて餌を待つ草たちに生命を撒いてやるのだった。









双対の苦渋という名の感情――――――。



藍染は嫉妬憧憬を浄化され、新たに芽生えた怒りという感情。そこから波及するのは、いくら聡明な
彼自身にも分からぬ苦渋。
は果てのない無から、存在を鎖(つな)ぎ止める絶対性を浄化され、不可解な万葉の苦渋を産んだ。



彼らがその正体に気がつくのは、まだ、先のことである。
























****************


*以上、43話でした。
 タイトル「卯酉万葉星」ですが、これは。。。難産でした。笑
 苦渋が生まれる、という意味合いを出すために、この連載のタイトルにもある「星」をそろそろ
 入れようかと思いまして考えたのですが、これがなかなか難しいこと難しいこと。色々考えて
 「そして」になりましたが、「そして冥加者は〜」とだぶるので取りやめ。
 直感的に「星の生まれる日」にしようと思いましたが、正確にはまだ、意図しているものは
 「生まれて」はいないので取りやめ。
 一生懸命考えに考え、結局「卯酉万葉星」になりました。

 読み方は「ぼうゆうまようぼし」。「卯酉」とは正確には「卯酉線」のことをさしていて、現在では
 「子午線」と呼ばれているものです。
 「万葉星」は千変万化するの感情の発生と戸惑いをこめて、さらに読みに「迷う星」と
 かけてあります。本当、言葉遊び好きだな。笑
 意味は、本編にも出てきましたよう、藍染とに芽生えた「謎の感情」が生まれたことを
 暗示するような意味をこめています。ただ、生まれたことは分かれど、何故生まれたのかは、
 その正体は一体何なのか―――それらは今後、段々と明らかになってゆくと思います。
 
 最後のこれからを予感させるかのような短文は、これからちょっとした転機を迎えることを暗示
 しているつもりでもあります。
 

*二人の心情には、確かに、間違うことなく「変化」が訪れております。故の初雪草編タイトル
 移行です。
 そしてそれに伴い、この話は次なるステージを迎えることになります。これからちょっとこの二人
 のお話が続きまして、そして浮竹隊長とオリキャラ2人の登場です。

 今は全く接触しないようなかんじですが、これからどのように藍染、と、浮竹たちは絡んで
 ゆくのでしょうか。
 お楽しみにしていてくださると嬉しいです。


*ではでは。





6:15 2010/04/09 日春 琴