第四十五話「豺狼、敗す」



数日後の夜―――早い湯浴みを済ませたは筆を走らせていた。


この研究棟にきてからというものの、本と庭の水遣り以外にろくに娯楽はなかった。しかしそれだけでも十分で、今日読んだ本で
感動した箇所や理論、そして毎日三回ある食事の詳細な献立などを記載した留め書きをこうして残すのが日課になっていった。
最近はそれに自分の思ったことなどを足して、いわば記録簿と日記をいっしょくたにしたようなものを紙に書き連ねている。こう
すると過去の自分が意外な行動を起こしていたり、それに対してその時々の自分の生の声が書かれてあって面白いのだ。実際
過去にそういう行動をしたのは自分だというのに、意外に人間というものはすぐに忘れてしまうものらしく後日改めて読むとその
出来事が感情とともにだんだんと蘇ってきて、楽しいのだ。
だから、今日もこうして一日の終わりに、最後の頁に日記を書く。だが今日はこれといって目新しいことはなかった。無論、庭の
回復の具合などはあったがそれは観察日記のほうにもうまとめてしまった。ここの頁は今日の出来事で何か感想を書くべきところ
である。
うーん、とひとしきり考えて、よし、と筆を降ろす。


『今日は折り紙というものをやってみたが、古い紙で折ったため何度も折っているとすぐに穴ができてしまう。やっとのことで折った
 鶴もなんだかへんてこである。
 次回はもう一度適当な紙を見つけて、失敗することなく折ってみようと思う。
 それにしても今日は一段と暑かった。足袋の中に土も入ってなんとも気持ち悪かったし、すぐに湯浴みした。
 そういえば水遣りの草籠だが、あれも老朽化が激しくなってきている。また直してもらわねば。・・・いつ惣右介は帰るのだ。
 まったくいつも急に帰ってきて飯を作れとわがままな奴だと思う。・・・そう思えばいい代価かもしれない。よし、今度はこれを理由
 にして直してもらおう。惣右介は器用だからな・・・』


そこまで書いて、なにか似たような内容だと違和感を感じて過去の頁をめくってみる。と、前日の日記にも「惣右介はいつ帰る」という
内容を書いていて失敗したと内心苦い顔をした。気になってさらに過去の日記を見てみても、見事に最近の日記には彼の名が
余すことなく記されていてため息を吐く。これではまるで主人を待ちわびている子犬のようだ。だが、いくらこんなに自分が彼を思って
百面相をしていても彼は微塵も自分のことを気にせずに今も働いているのだろうと思うとなんだか悔しくて、最新の頁を引き抜いて、
ぐしゃぐしゃに丸めてから屑入れに放り投げた。そしてそのまま、やり場の無い憤りを抑えるために寝台の壁にある窓の戸を閉めようと
席を立ち、踵を返す。
『一応』―――外に誰か居ないかと窓からひょっこり顔を出して庭から一面を見渡してみるが、やはりそこには誰もいなくて。






「何をしてるんだ、私」





大きなため息を吐いて、しかし戸に当たるのは場違いだろうと思って―――とりあえず気持ちを落ち着かせるために天を眺めた。


今日は晴天。本来なら黒いはずの空も今日は満月が煌々と照って蒼い。吸い込まれそうな空におぼれそうな錯覚を抱くが、空がちりばめ
ている星星があるおかげで正しい遠近感が得られ、なんとか脚がぐらつかなくてすむ。まがまがしいまでに美しい蒼月は周囲の星を融合
してしまいそうなほど巨大で、靄に曇る顔を優しく暴いてくれて思わず感銘を受けずには居られない。

しかし、その大きな円の逆光を受けた黒い影が、の大きな瞳に映りこむ。この研究棟周辺は不毛地帯故に鳥等は侵入してくることは
ないはずなのに一体何だろう―――
太陽のように眩い光に目を細めて、注視する。その黒い影は確かに、大きな翼を持った立派な鳥だった。獲物か何かを捜しているかのよう
に、大きな円を描きながら上空を周回している。夜なのにこんなにも活発に行動する鳥がいるのか、よし、今日の日記はこれでしめよう。
そう意気込んだ時、ふと鳥は斜めに円を描いた。


そして―――月に照らされた、鳥の色。
まるで最高級の絹で織られた芸術作品のような羽、銀色に輝く逞しい胴体――――――。




「・・・・・・!」




間違いない――――――あの鳥は、父上や母上が放ったいつもの白鷺。毎日のように、「愛のこもった手紙」を届けてくれていた―――
・・・・・・自分を監視しているあの鳥だ。


だが、だからといって勢い良く部屋に入って、そして窓を閉め切るという選択肢は脳裏に浮かばなかった。ただ、浮かんだのは。




( ・・・・・・いやだ。 嫌だ、まだ )




その言葉だけ。確かに瞳は揺れる。
しかしやはり、役目は果たしたい。
それに―――なによりも、の心を揺さぶったのは「親がを捜してくれている」という事実。その事実こそが、をまるで動かない
人形のように固まらせている原因だった。
だが漏れ出た感情の波は止まらない。そればかりかより一層振幅を増すばかりだ、まるであの修繕された草籠に満たされた水のように。
壁に反射してはさらに波の高さは増幅して、やがて縁まで到達する。それでもなお揺れたらあとはもうどうなるかなんて嫌なくらい
知っていて―――。



「そ、惣右介はまだか」


―――今日帰るなどと一体誰が分かるというんだ。は口走った己の言葉に対し己のなかでどこかあざ笑う。
そう、一体いつ彼がここに戻るなどと教えてくれるのだろう。大体―――・・・藍染の最近の苦渋や明らかな怒りに心地よさを少なからず
覚えているが、彼は自分をせいぜい王族居住区域へ侵攻するための切り札として生かしているだけに過ぎないかもしれないのに。いや、
むしろ最初はそう思っていたではないか。彼の本性が暴かれた、つまり完全催眠とやらを破ったあの夜には確かに、そう確信していた
はずなのに。それなのに彼のそんな軽薄な態度に心地よさや安堵を後塗りしたのは自分じゃないか。
最近藍染の態度はいくばくか和らいだものになってきていると思っているのも、それも後塗りかもしれない。以前は床に打ち捨てられた
食事も今は、食卓にきちんと並んで食されている。だがそれは自分が彼に対して心を開いているから、彼もそうしてくれていると違いない
と―――そう思い込んでいるだけではないか?
そうだ、彼は誰よりも野望に忠実で冷酷で、かつ聡明冷静な死神。
自分を安心させ、いずれ―――今は気づかれていなさそうだが白鷺が舞っていることから―――近いうちに迎えにくるであろう王族の
遣いに恩を売り込むために「わざと」優しいようなそぶりを見せてるだけかもしれない。
以前、そうここにきたばかりの頃は藍染の思考が冷静に判断できたはずなのに―――今では『余計な雑念』が邪魔をして真実に靄を
かけてしまっているようだ。

藍染の完全催眠は打ち破れたのに、今度は自己催眠に打ち負けようとしているのか。

だけれども、一度知ってしまった安らぎを完全に払拭することなどできなくて。
できることなら藍染に直接、いますぐに聞き出したい。本当のことを。本当の気持ちを。・・・もっとも、教えてくれることはないだろうし、
それを訊いたのなら弱みを見せたとして彼により一層だまされることになるかもしれない。だからそう思ったとしても怖くて、訊けないの
だが。

ああ、心の距離が埋まるほどに、相手の心の理解からは遠ざかるかのようだ。

先天的な『使命』と、後天的な『私命』の狭間に置いてけぼりにされている事実がもどかしくて、焦燥に駆られて、はどうしようもなく
固まり続けた。


「・・・っ!」


だが、それは突如震えた大地の振動の騒音で中断された。




―――ドォオン、ドン・・・!




何か大きな物体が地鳴りを上げている。この感覚は忘れもしない―――居住塔が破壊されたときに聞こえてきたものと同等の振動、音。
ということはここの近くにまたあのような巨大な虚が跋扈しているということか・・・そうは思えどしかし、藍染が以前言っていたことを信じる
ならばここは完全催眠によって「何も無い」地になっているはず。つまり、この研究棟は存在していないことになっている。だけれどもこれ
また彼の言葉を信じるなら、完全催眠は「見たものに対し有効」であるから、近隣の住民にとってはそうかもしれないが、新たに生まれた
虚等はここに入ってこれるということも考えられる。
とすればこの棟を発見される可能性がある。・・・しかし、あの聡明でかつ用心深い藍染がそのような事態を想定していないことがあるだろ
うか?間違いなく今、自分が生かされているということは自分に死んでもらっては困るからなのだろう、まあその理由が何故であるかは今は
あえて考えないことにするが。
だったらなおのこと―――ここに虚が進入出来るということはおかしい。
よってこれは高確率でおかしなことがおきているとが解を出した時、聞きなれた・・・そしてなによりも待ちくたびれていた彼の声が聞こえ
てきて、は目を丸くした。


「・・・・・・ここの地区全域に幻惑をかけているのにもかかわらず、侵入してくるとは驚いたな―――ただの下等種のお前が」


ずっと彼と一緒に生活してきたには分かる。その声は確かに平坦ないつもの声音だったが、しかしそこには明らかに荒い息がまぎれ
ていた。


「―――っ!」


気がつけば、行けば危険だと重々承知の上だったのには表へ続く扉へと駆け出していた。















【流星之軌跡:第四十五話「豺狼、敗す」】











   ( ここは・・・・・・・どうしてだ?  どうして。  ここは完全に無くなって、無法地帯の空き地になったはず。




     でも・・・俺にはわかる。




     ここの空気、土の香り、風の音、優しい思い出・・・全て、全て懐かしい。
     あの時の、穏やかな日常が続いていたあの日の村―――・・・





     虚との大規模な戦のせいで土地ごと焼き払われて跡形もなく消し去ったはずの、俺たちの村・・・・・・






     日酉(ひどり)村・・・・・・! )









「お前を創った私に楯突くとは、相当悪いものを『食らった』らしいな、諜報飲食型下等種・・・」





目の前が一瞬一瞬、酷くゆっくりに感じられた。
ただ必死に、ひたすらに脚を動かして草の海をもがき泳いで、は藍染の元へと走った。

ようやく見えてきた彼の姿を確認すれば、黒装束越しにでも分かるほど、重たげに湿った着物。先をたどれば腕を伝った血液が
指先から何本も滴って、地に根を張る草たちに朱の潤いを与えている。彼を月の光を背に受けた大きな虚の影が覆い隠していて、
なお一層は焦った。白い身体に蒼い月を反射して、ぬっとそびえる様は絶望の暗闇の中に際立って浮いていて、その不気味
さに思わず背筋に緊張が走る。その肩は異常に発達していて、肩から不自然な筋肉を隆起させ、顔の何倍もありそうな掌に象牙の
鋭く太い爪を有して、大きな空を切る音を周囲に響かせながら腕を振り上げ、今にでも藍染に襲い掛かろうとしていた。

がさがさと大きな物音を立てていることなど念頭になかった。そう派手な音を立てていればむしろ虚の気がそれて好都合と思うくらい
だ。はその時とにかく必死で、自分の身が再び刃のような爪で危険に晒されるかもしれないという思慮など頭に無かったのだ。
ただひたすらに、途中草たちに脚を掬われそうになりながらも虚の背後へと回って―――



幸運なことに、虚がの存在に気がついたのは、彼女が虚の背ぎりぎりにまで近づいた時だった。










「惣右介に・・・手を出すなっ!」








無防備な背に、は自らの長い髪を纏めていた笄を引き抜き、目をぎゅっと瞑って、細い先端を思い切り突き立てた。


「グゥウウオオオッ・・・・・・!!」


見た目に反して柔らかかった白い背に飲み込まれた笄。そこからは真っ赤な鮮血が飛び出しての頬に、ぱっと散る。止め具を
失った黒髪ははらりと舞い上がって、この場にそぐわぬ調和の取れた色彩を生み出している。しかし渾身の一撃も無駄だった
ようだ。大きなうめき声には明らかに苦痛の声というよりかは怒りの声が混じっていて、は身に迫るであろう報復にただ立ち尽く
して恐怖するしかない。
案の定、ぐるりと虚がこちらを見て―――漆黒の影が今度は藍染の代わりに、の蒼白した顔を塗りつぶす。そして真っ赤な眼球
の恐怖に固まった茶の眼(まなこ)とかち合った時―――



「―――ぁ、グッ!!」



腹を中心にして体のあちこちに物凄い衝撃が走って、は思わず一瞬意識を失う。暗転した世界からなんとか引き戻ってくれば、
急に自覚する激痛。寸前の記憶が正しければ、あの虚は腹を掌で薙いだ。しかし鈍痛だけでなく鋭利な痛みもあちこちでする・・・
痛みでろくに力の入らない腕に、無理やり力を入れてみれば、右腕に四本の紅い線が肉に深く、刻まれていて。かすったとはいえ
あの力でもって腹を殴られたため、骨も危ないのか、呼吸することにすら激痛を覚えて絶え絶えになる。そうなると酸欠に脳が朦朧
としてきて―――死ぬのか、と底冷えした空気が、しかしどこか満足感を得たような、間延びした空気がを優しく包んだ。


「私もなめられたものだな。 ・・・・・・こんな瑣末な出来損ないの諜報用など、左手で十分だ」


かすむ視界が黒に染められる。はそれを目にして、ぼんやりとただ嬉しかった。


「今、君に死なれては困る」


あくまでも残酷な物言いをする『冷たい』死神に―――の胸のうちは心底安心するのだ。口元は苦痛に歪むが、同時に釣り
あがって、不思議と呼吸も痛みも、楽になってきた錯覚すら覚える。ひゅ、ひゅ、と聞き苦しい呼吸は吐く度に顔にかかる鬱陶しい
黒髪を揺らし、吸っては貼り付かせる。うつぶせで肺が潰されなおのこと呼吸に精一杯になるの耳には虚の咆哮が聞こえ―――
次に、ボタボタと血雨が草に降り注ぐ音が聞こえた。大きな地響きが身体の骨に響いて、痛い。


虚がどうと倒れた振動では顔を顰める。


「そんな顔が出来るのなら、あまり心配はないようだね。 ・・・だが、君は大切な道具だ」


痛いというのに藍染は容赦なくの身体を引き倒して仰向けにさせた。そして、無言のまま何かを口走る。
途端暖かい光がの身体を包み込んで、痛みは全身から瞬く間に消えうせてゆく。まるで止めていた血液が全身にいきわたる
ように、曇天が急に晴れ行くように、太陽のような暖かさが、心臓を中心として身体の毛細血管の隅々まで行く渡ってゆくようだ。
何かと思って瞳をきょろきょろさせていると、探究熱心ということを嫌というほど分かりきっているのだろう。藍染は聞かずともそれが
簡易的な回復の鬼道だと教えてくれた。なるほど、故にこの回復力か。麻痺とかではなく、本当に痛みが、痛みの原因である傷口
がなくなってゆく。その超常現象とも呼べる真新しい現象を目の当たりにして、は思わず感心してしまう。
次第に身体も軽くなってきて、呼吸も落ち着きだす。いよいよ身体の表面に見える傷はふさがって、は身を起こす。大きく息を
すれば未だに体の奥の鈍痛は残るが攻撃を受けた直後よりは随分ましになった。ためしに手を握ったり開いたりするが、先ほどまで
の違和感はすっかり消えていて、いつものように動かせる。腕の表面を真っ赤に染めていた血もすっかり霧散していて、いまやその
片鱗は着物に染み付いて取れなくなったもののみとなった。

そして―――沈黙が二人の間をたっぷりと満たす。

は先ほどの藍染の言葉に納得と――――――そして湧き上がった期待との狭間に立たされていて。
藍染の表情はいつにも増して無を貼り付けていて、しかしその下には明らかな歪(ひずみ)が横たわっているように見えて、なおのこと
言葉を飲み込むしかなかった。




だが、ふと彼は、笑った。








「驚いたな」









え、と喉の奥での声が弾けて消える。



「何故、私を助けようとした? ・・・君はてっきり、何もせずに固まっているだろうとばかり思っていたよ。
 君が誰かの『味方』になるなど―――どういった心境の変化かな」



彼の言葉の意味は深い。今の言動から藍染はのことを、少なくとも誰の味方でもないと思っているのだろう。
それもそのはずで―――藍染の考えはこうだからだ。
は使命のためだけに、今までを生きながらえてきた。それは彼女が使命を己の命を引き換えにしてまでも果たすべきもの、
つまり自分の存在意義、至高の目的としていたからだ。
だが、それはわずかながらに違った。いや、少なくともあの塔にいた時こそそうだったのだろうが、生活が急変してから、即ち自分
が彼女を拾った時から使命は揺らぎを見せた。その揺らぎというのは、決して親の命令を破棄しようというのではない。それは
あまりにも短絡的過ぎる見解で、彼女はそこまで藍染自身に依存しきっていない。いうなれば、使命は最近になって二つに分かた
れた―――そこに優劣の差はない。
ただ変わらないのは彼女は『あくまでも道具として生きる』こと。今まで両親のためだけだったそれが、最近になって藍染もそこに
加わっただけに過ぎない。下劣な存在である王族と同等の線上に立たされることに激しい嫌悪を覚えるが、しかし彼女のなかでは
あくまで、それだけのこと。



故に―――誰かの味方につくことなど、藍染には考えられないことだった。



世界の無数の論理や知識を手にしているというのに、の考えていることだけは全く分からない。そのことに対する憎悪の感情を
嫉妬と把握した時、その感情は消したはずなのに。
それなのにまた這い上がってくるこの苦しみの心は一体何だ。



「・・・・・・」



一方藍染の思考を放っておいて、は無言のうちに己の着ていた服の端を歯で噛み押さえ、もう片方を思い切り引っ張って、裂く。
不恰好な長方形に切り取られたそれを何十にも折りたたんで、は依然じとじとと血を滴らせる藍染の傷口をきつく縛った。しかし
思った以上に出血は激しく、すぐに滲んできて絹でできた高級な羽織を染め上げてしまうものだから、は再び、先ほど切り裂いた
着物の解れた場所を更に引き裂き、新たな包帯を作り、そして右脇の近くを縛る。






「いいのかい? ・・・あの虚は正しいのかもしれないよ」






藍染の唇は、いつの間にか自嘲を滲ませていた。





「この尸魂界の―――否、遍く世界の脅威である私を殺そうとしたのだから」




うつむきながら手当てを施すの顔を伺うことはできない。ただ無言のまま、彼女は自らの着物の裾で藍染の血に染む掌を拭って、
そして応急処置のために不完全な包帯の結び目を再び硬く結び直すために軽く、解いてゆく。
その様子に、永久に凍った筈の心の核は、藍染の口を勝手に動かした。




「私を助けるということは即ち、この世が滅び逝く速度を速めることと等しい」




そう口にした瞬間、傷口を縛っていた包帯を思い切り縛られて、さすがの藍染も予想外の激痛にかすかに言葉を失わざるを得な
かった。
それに―――今の行為は彼女の何かしらの意図を含んだものに違いないから。そうでなければ試すような言葉を口にした藍染に
こうも反応はしないだろう。





( 彼女の心は、何故、私を助けることを選び、彼女の心は、今の言葉に、一体何を感じた? )




何かきっかけがあったはず。しかし、そのきっかけなどここ数日間この棟を空けていた自分に分かるはずも無くて、今更ながら
臍を噛む。
そして―――臍を噛んだ自分を自覚して、驚愕する。


( 何故、口惜しいと感じた。 今、私は――――――何故 )


それは無知なに劣った知識を感じて苛立ったためか、それとも―――・・・・・・?



藍染も同様に先ほどのの行動に納得と――――――そして湧き上がった期待との狭間に立たされていて身動き一つ
とれずに固まる。
そんなに己の心を確かめたいのであれば、すなわち彼女の表情が気になるのであれば、すぐそばにある細い顎を乱暴に持ち
上げて無理やりにでも顔を上げさせればいいのだ。
だがそれなのに、不思議と今はそんな気は毛頭起きない。まるで全身があの鎌で地に貼り付けにされているかのようにただ、
彼女の次に口にする言葉に耳を澄ませるしかない自分がそこには、居た。



「最近――――――思うんだ」



静かになった藍染の様子に安堵したのか、結び目から手を離したは今にも消え入りそうな声で話し始めた。



「何故、私はここにいるんだろう」



誰のために息をしているのだろう。幾度となく藍染が心のうちで思ったことを、彼女は惜しげもなくさらけ出して。次第に滑らか
になってゆく口調は、決して重たいものではなかった。
むしろ段々と明るくなっていって―――自暴自棄ではないが、そういった類のあっけらかんとした物言いで。
藍染はしばらくの間、注視する。



「何故、ここに生きながらえているのだろう。 自分の居場所は? 自分が本当に『居たい』と望む場所は?
 本当に、私は父上や母上を愛しているのか?
 ・・・・・・それら全ての答えはきちんとあるのだ。 その解は全て、父上や母上への愛情へと帰結する。
 だがあの日、お前に会ったその時から――――――別の解が出てきたのだ。 確かに、私は父上たちを愛している」



ふと、の口調が変わる。



「だが、それは何故だ」



その言葉はまるで、自身に問いかけているような言い方で。



「・・・何故、愛す?」



暫しの沈黙が二人の狭い距離を縫う。彼女の顔は依然うつむいていて、今の表情を知ることは出来ないが覗いている唇は
見えていて、それはきゅ、と硬く結ばれている。
あまりにもきつく噛むものだから唇は血の気を失って、ふるふると震えているではないか。
自然と、そこまでして次に語られるであろう結論に意識が集中する。



「・・・その解にたどり着いたとき、あまりにも醜悪なもので、非道く単純なもので、否定したくなった。
 だが――――――今、この解が正しいものだと確信した」



ふと、何かを打ち払ったかのように顔を上げた。



「だから、お前の質問など愚昧なものだ」



淡雪のように儚く、危うげな苦笑に、不可解な苦しみに喘いでいた藍染の心は戦慄いた。

ああ、これが本当の『美』というものなのか――――――藍染は、真実の美をまざまざと目の前で教えられたと、震えた。

強く、しかし弱弱しく生きながらえているは、今にでもこの禍々しいほどの夏の生気に溶けていってしまうよう。

夢幻泡影(ぜろ)の桃源郷。最上なる森羅万象を統べているのに、それを凡庸な人間が肉眼するのは非常に難しい。真昼の
太陽光―――身勝手な陰謀と皮肉という光の支配者―――に、彼女の万象は隠されてしまって決して見ることは出来ない。





臨界純度の透明な微笑―――熱く激しく燃える、けれどもすぐに融け逝く、真昼の流星。





「皆、たった瑣末な自分の存在を証明するために、生きているのだから――――――私も――――――お前も・・・・・・」





ああ、端から敵う筈もなかったのだ―――具象のすり替えを行う『完全催眠』など。
こんなにも『無』である存在に、『有』を置換させるなど、出来るはずもない。





最早、策謀・思略の一つも浮かばない。何の飾り気もなく無意識に手はの頬に伸びる。そして、いくらか酸化した
朱で、滑らかな白の丘を染めた。
微笑みに潤む瞳が何よりも浮世離れした芸術で、ただひたすらに言葉を失うだけだ。





―――しかし、その時、二人の真っ白な世界を鳥の甲高い鳴き声が切り裂いた。






「ガァァッ、ガアッ、ガアッ・・!!」





けたたましく騒ぎ立てる悪声は、不気味に二人だけの世界を壊してゆく。





何故。
ここには鳥など決して入ることなどなかったのに。
ようやくから手を離して、藍染は空を見上げた。
全てを飲み込むかのような漆黒で塗りつぶされた虚空に、月光を反射した何かが舞っている―――あれは、鳥・・・
―――それも白鷺だ。
ここ近辺に彼らの餌となるような魚が住める水場などないのに、何故このような辺境へ。見慣れない鳥の行動を注視
していると、ふとそれは大円を描きながらこちらに舞い降りてきた。
何かを知らせるかのように大きな声でガアガアと言いながら、やかましく舞い降りて来て―――そこで藍染はその現象
の不自然さに行き着く。

大体、そもそもこのような深夜に鳥が行動すること自体がおかしいこと。
それに『何かを知らせるように』とは――――――・・・?





そこでようやくすべての 『不自然さ』が一つの糸で繋がって、藍染はバッと、目の前のを見やった。







すると、そこには――――――
















何もかもやりきれないといった、複雑な表情で美しく微笑む、がいた。






















ガアガア、ガアガア・・・やかましく鳴きながら、いよいよそれは二人の頭上まで舞い降りて。








 ザ  ン ッ ! 








―――――― すべてを悟った藍染は 『 何 故 か 』 白鷺を勢い良く斬り殺した。






今まで優雅に舞っていた軌跡は不意に沈み込んだ。
ぼたっという音とともに、白鷺は草の海に溺れてばさばさと音を立てて、もがく。金色の眼は痙攣した瞬膜で何回も
塞がれては開くを繰り返し、口からは気道から競り上がってきた鮮血を惜しげもなく垂れ流す。ざっくりと斬られた
身からは勢い良く血が噴出して、朱の放射をもって碧の海を、真っ白な身体を汚す。なんとか生きようと、死に対して
抗いを見せようと羽をバタつかせるがそれはかえって出血をあおった。無慈悲な月光は、今までそれを美しく照らし
出していたのに今はてらてらと、それの臓物をあざ笑うかのように、しかしどこか慈しむかのように照らしている。途中で
切断された骨は筋肉・腱も切断されていたためにむき出して飛び出ていて、まるで真っ赤な鑓のように天に突き出し
ていた。
やがて命の抗いが鈍くなった白鷺は、最早『白』鷺とは形容できない。まるで紅鶴のようだ。


 ばた、ばた・・・ばた。


死への抵抗を見せるほどにむせ返るほどの鮮血に染まった羽が、儚く微笑むと、無表情を必死に作り出そうと
躍起になる藍染の周囲を舞い散り、取り囲む。




 ばた・・・・・・ばた・・・・・・・・・・・・ばた・・・・・・・・・・・





 ・・・・・・・・・・・ばた・・・







 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・















大義なる護廷十三隊五番隊副隊長に身を窶しその実、一騎当千、千軍万馬の豺狼傀儡師の大逆人、藍染惣右介。

この日初めて、たった一人の少女に無手惨敗の夜を喫した。





























****************


*戦闘とかの意味ではなく、敗北を喫した日。第四十五話でした。
 不戦勝ならぬ、不戦敗といったところですね。何故負けた、と藍染が判断したのかは本編に比較的書けたとは
 思うのですが・・・(もし伝わらなかったらすみません・・・)
 まあ、要は白鷺(大我)を切り殺したのが一番最初の敗北なわけです。はい。
 別に藍染にとってみればを発見されたって待ちわびた王族が迎えにやってくるのですし、好都合なのですが。
 ―――完全催眠が敗れた理由を改めて知った藍染はの存在の危うさに心引かれ、「何故か」白鷺を手にかけたのです。
 
 彼が以前言っていたことを引用するなればそれは「本能が選んだ」無意識の行為だということになります。
 本能的に彼は大我を殺した。それが藍染惣右介の生存本能に起因するものだとすれば―――やはり、その行動をさせた原因である
 に対して敗北したことにほかなりません。

*完全催眠が敗れた理由。
 もともと完全催眠とは、具象のすり替えですよね。そこで思ったのは「じゃあ具象すらない存在なら、完全催眠って効果無いんじゃ?」という
 ことでした。そこでにその役目を吹っかけたのですが・・・
 ですが以前にも話していたように、完全催眠は本当にそんな精神論で敗れるものなのか?ということにまだ決着はついておりません。
 ・・・ここらへんも推測いただけると嬉しかったりします。笑


*次回はようやくこの「初雪草編―八千代―」の「八千代」部分に触れてゆけると思います。そしてちょっとずつ視点はたちから離れて
 ゆくと思います。・・・オリキャラのほうに。
 ただ、軸はしっかりとなので、ご心配なさらぬよう。笑
 しばし、お付き合いくださいませ。

*ではでは!





5:34 2010/05/01  日春 琴