第五十二話「同じ雨」



それはようやく春めいてきた頃だった。

極寒の辺境村のとある小さな、壊れかかった貧乏家のもとになかなか授かることができなかった幸福が、
ようやく二人のもとへ舞い込んできたのは。

「俺の名が『八峰』、君の名が『佳代』・・・この子の名前はなににしようか」

まだお腹もあまり膨らんでないのに気が早すぎるわよ、と苦笑をしながらも君だって、凄く喜んでるじゃないか。
こつこつと貯めていた賃金で買ってきた栄養剤を紙袋から取り出して、彼女のもとに急いて駆け寄る。
逃げるわけじゃないのに。そう思っても、止められなかった。

「・・・女の子なんだろ?」

ふと窓から吹き込んできた春風はまだ冷たくて、冬の余韻を残している。近くにあった、できるだけ暖かそうな羽織を
彼女にかけてやりながら、反応を待つ。その時間すらまるで陽だまりのように幸せで、こんな日々が続いていいものか
と少しばかりの罪悪感に浸ってしまうものだ。

「うーん、じゃあ、『千』で始まる名前がいいわ」

「どうして?」

さして間をおくこともなく、彼女はその名前の由縁を語る。
なんだ。俺よりもずっと前から、――――――考えていたんじゃないか。



「あなた、この子、私、の順に一文字ずつとったら――――――『八千代』。
 私たちはこの先、どんなにつらいことがあってもずっと・・・ずーっと一緒。 そういう思いをこめてみたいの」



ああ、いい名前だ。
多少の狡さも、その理由のまえには皆無になってしまう。全てが許せてしまうような、そんな心地よさと感銘を受けた。
これからたとえ困窮に喘いだとしても、大災害に見舞われようが、俺達の幸福はこの娘を中心にして回り続けるのだろう。



そうだ。俺達は三人で、八千代に『ひとつ』だ。



【流星之軌跡:第五十二話「同じ雨」】


相馬副隊長のご活躍はそれは、立派でした。
誰もが大虚の前に戦き、しり込みする中で唯一果敢にも突撃していった。俺は浮竹隊長の命令で彼を監視していましたが、彼に
そんな冷静さを失うような行動は見て取れなかった。ただいつものように冷静かつ勇猛に的確な指示をだし、先に戦っていた隊の
援護をしていました。その姿に、俺は少なからず安堵したことを、覚えています。
・・・相馬隊の動きによって、虚の大群の統率は見事に瓦解していきました。奴らは散り散りになり、俺達の隊が各個撃破する。
長丁場になるかと思われた戦闘も、相馬副隊長の作戦によって思ったより早く済みそうだと、皆の心に希望が差し、一丸となった
時です。

俺は気がつきました。ですが――――――遅かった。

確かにこの作戦は敵の戦力が分散されて各隊の負担の減る、非常に戦いやすくなる作戦です。でもそれは、相手の戦力と自分達の
戦力が五分五分の時にだけ有効な危険なもの。五分五分でなければ撃破されてしまった隊の尻拭いをするために負担は倍になり、
なおかつ予想外の場所からの攻撃で危険も倍になる作戦だ。
俺はギリアンとアジューカスを相手取りながら、感じていた違和感を考えていました。そして気が付きました。そうだ、この
戦いは五分五分なんかじゃない。いやむしろ相手のほうが少し上手だ―――何故なら、この軍勢を率いている頭領は
ヴァストローデ級の虚―――。

そしてそこに向かっていったのは、・・・・・・・・相馬副隊長だった。

こちら側の戦況は結構按配が良かった。この調子であれば俺の隊を半分に分けて、副隊長の隊の応援にも駆けつけることが
できるだろう。そう判断して俺は隊を分けて救援に駆けつけました。


だけれど―――そこで見たのは絶望的な光景だった。


相馬副隊長を残してあと数十名の隊士たちが生き残っていて、他の者達は全員・・・事切れてその場に横たわっていました。
生き残っている隊士たちも辛うじて立っていられるという状況で、ヴァストローデ級の強さを改めて実感せざるを得なかった。
誰もが恐れと強烈な霊圧に微塵も動けないなかで、相馬副隊長だけが果敢にも戦っていた。

慌てて俺も駆けつけようとした時――――――相馬副隊長は「来るな」と、そう言いました。


こいつは俺の幸福を八千代に奪った仇の虚――――――俺が、仕留める、と。



急激に霊圧が上がり、その場は無音と化しました。
俺は・・・何も出来なかった。何も出来ずに・・・・相馬副隊長が斬り込む姿を見ているしか出来なかった。

全ての憎しみをこめた、死神となってからの彼の歴史全てを煉り込めた刃が、十字傷の大虚に突き刺さった。
やったか―――そう皆が明るい期待に胸を膨らませました。だけれども、相馬副隊長はその瞬間、何かに気がついた
ようだった。

そして俺達にただ「逃げろ」と―――そう告げたのです。


別に、虚が自爆したわけでもない。何か最期の一撃を出したわけでもない。
だけれども―――・・・
そう言った瞬間に、俺達の前から相馬副隊長と、ヴァストローデ級の姿が忽然と消えていたのです。
一体何が起こったのだと唖然とする俺達の前に広がっていたのは、明らかに『今』、飛び散ったであろう夥しいほどの鮮血―――。
愕然としながらもその『池』とも形容できる場所に、死体の山に足躓きながらじゃぶじゃぶと突き進んで行って感じたのは、・・・
・・・相馬副隊長の霊圧。そして、真っ二つに折れて拉げた斬魄刀。

認めたくなかった。認めたくなんか、なかった。
だけれども、草履の網目から足袋に滲む彼の血液が、重く鈍くおどろおどろしい憎しみの残留思念が、悲しく浸かって鈍色に光る鋼が、
それら全てが相馬副隊長の霊圧を物語っていたのです。

彼は生きているのか、それとも。そんな簡単な判断、冷静な者であればすぐにわかるというのにも関わらず、俺は彼の霊絡を辿りました。
霊子だらけの尸魂界でそんなことをしてもほぼ無駄なことは解かっていました。でも、そうせずにはいられなかった。複雑に絡まる糸を
ひとつひとつ解き、濁流の先に彼の霊絡が見えて、ようやくあれかと思って手繰り寄せようと手を伸ばした時――――――その霊絡は
ぷつりと切れた。




・・・相馬副隊長は最後の瞬間、・・・・・・笑っていたような気がします。


いえ、・・・・・・俺は・・・・・・・っ。 ・・・・・・そう、思いたい・・・・・・です。


・・・・・・・・・。




――――――これが護廷十三隊 十三番隊第四席率いる志波隊―――志波海燕が見た、相馬八峰副隊長の最期の姿です。
























その日は雨だった。
十三番隊一般隊士を含め、相馬八峰の隊葬式はいかにも事務的に、そして何事もなくしめやかに済んだ。鈍色の曇天から落ちてくる雨粒は
どれもが大粒で鬱々とさせるが、この日には丁度お似合いなような気もする。今は夏真っ只中であるが、この雨は気温を大分下げてくれて
いる。だが、ひんやりとした空気が立ち込めた隊内では涼しさに喜ぶ死神はおらず、士気は底辺を這い、皆どことなく気分が滅入っている
ようだ。

浮竹は事後の処理に追われていた。ただ、今彼は白羽織を着ることはない。十三番隊では隊葬式の時には隊長のみが着ることの許される
いつもの白羽織を着ることはなく、一般隊士たちと同じ死覇装を身にまとうのが仕来りである。隊長として犠牲者を見送りたい気持ちは
あるがそれ以上に、浮竹十四郎という一人の死神として彼らを送りたいというのが、その規則の理由になっているのだ。
一般隊士たちを先に業務に戻らせてから、浮竹は死亡報告書をまとめていた。

犠牲になった死神の寫眞を見、経歴を見ながら浮竹はそれら紙の上の文字だけでは語りつくせない彼らの人生を燻らせる。隊長という
ものは隊士たちの死一つ一つにこんなにも敏感になってはいけないことは解かっている。こんなに時間をかけていては大戦続きになった
ときにどのようにして動くというのだろう。だがそここそが浮竹の人徳が発揮されるところで、隊士たちは浮竹の気持ちを汲みとり、
任せてくださいといわんばかりに莫大な数の業務をこなしてくれるのだ。
そんな彼らの暖かい思いやりに甘えながら、今日も浮竹は二度と還らぬ仲間を厭い、そして―――明るい決別が済んだら、死亡認定の
判を捺すのだ。


(最後は――――――・・・)


死亡報告書の最後の頁を捲れば、必然かそれとも偶然か。相馬八峰の死亡報告書が出てきた。


彼に対する思いは沢山ある。それは彼だけでなく、彼を生かした村人全てが背景に加わっているからというのも原因のうちの
ひとつである。彼の後ろにはいつだって、顔も知らぬ幾百の歴史が彼を優しく支えていた。
さて、・・・・・・どんな言葉を、最後にかけようか。
だけれどもそう思っても、どうしてだろう。言葉は、言葉なんて、出てくる気配すらなかった。

ただありきたりな言葉を送るのであれば、「すまなかった」と―――そう伝えたい。

ぎゅ、と唇を噛み締めて、浮竹は八峰の寫眞の上に判を捺した。






――――――ボォン・・・ボォン・・・ボォン・・・――――――






ああ、もう、こんな時間か。そろそろ終業の挨拶に向かわねば。
定時半刻前を知らせる鐘が響いて、ばらけていた報告書を再び束ねて、浮竹は腰を上げた。


――――――その時、浮竹の視界の端に何かが映る。思わず何だと思ってもう一度違和感を感じた軒先を見てみれば、
そこには――――――相馬千沙がぽつりと、大きな黒の番傘を持って佇んでいた。


「・・・千沙さんじゃないか!」


浮竹の表情が、ぱっと明るくなる。それというのも、彼女はあの長屋襲撃の日からというものの今日までぱったりと消息を
絶っていたからである。唯一頼れる存在であった父親を戦いで亡くし、身寄りのない彼女はこの先一人で生きていかなければ
ならない。だが、この世界では彼女のような境遇の子どもたちは零というわけではなく、護廷十三隊に所属していた死神の
家族用にと特別に開設された戦災孤児専用の孤児院がある。孤児院に入院するためには戦災孤児認定を生前親が所属していた
隊の隊長から直々にもらわなくてはならない。浮竹はすぐにその認定を出したが、今度は千沙の居場所が途端にわからなくなって
しまって困っていたのだ。
一体今までどこに行っていたんだ、と訊きたい衝動に駆られるが、それは彼女の思うところを無遠慮に傷つけてしまうことになり
そうで、浮竹は言葉を飲み込んだ。

千沙はどしゃぶりの雨の中を突き進んできて、何も言えずにただ不恰好に微笑む浮竹の前まで歩み寄る。
そして、


「父さんの遺品を取りに来たの」


いつまでもここにあったんじゃ、場所とって迷惑になるでしょ。
幼いながらに背伸びした痛々しい笑顔で、そう告げる唇はかすかに震えていた。

















土砂降りという感じの雨ではないが絶え間なく降り注ぐ雨が、廊下を歩く浮竹と千沙の足音を掻き消す。先を浮竹の足音が行き、
数歩遅れて同じ場所を千沙の小さな足音が通り過ぎる。沈黙が似合う状況だとはいえ、このままだといたたまれなくて、なんとも
つらくて、浮竹は道すがら、千沙に先刻の戦災孤児登録の件を話した。


「十三隊が直接養ってやれないのが何よりも心苦しいが・・・同じような境遇のお友達も沢山いる。 最初はあまり慣れないかもしれない
 が、不自由は一切無いし・・・千沙さんなら、すぐに慣れるよ。 安心しなさい」


ただし、彼女のほうを見ることは出来なかった。本当であるならこういう重要なことは本人と向かい合って話したいものだが浮竹にしては
珍しく出来なかった。
聞いてはいるだろうが、千沙からの返事は無かった。やはり強がってはいるが、彼女は間違うことなくまだほんの幼な子なのだ。身も心も。
いやむしろ、このくらいの年の少女にしてはあまりにも凄惨な歴史を辿ってきてしまっている。その頼りない小さな身体に、虚による母親を
含めた故郷での虐殺、そして此度の父親の惨殺―――世の中の醜い世界とあらゆる不幸を一身に背負ってしまった。その苦しみは計り知れない。
心が崩壊してもおかしくないくらいの状況に立たされているのにも関わらず、唇を噛んでなんとか立っている。そんな彼女に、その硬い唇を
こじ開けさせて「肯」を言わせるなどと、そんなに惨いことは出来ない。出来るはずない。
出来るとすれば彼女の悲しみ、苦しみを全て無視してしまうことになる。「肯」を聞いてただ己の罪悪感から逃れたいがためだけではないか。


では、何も言わなくていい。ただそこに壊れずに立っていればそれでいい。それだけで、いい。それ以上に何を望むんだ。それ以上に、他人
の自分が一体何を望んで許されるというのか。
これから彼女は、生前の父が生活していた部屋に立ち入るのだ。生が染み付いた空間で彼女が錯乱してしまうことは十分に考えられる。
では自分は、泣き崩れてしまう彼女を支えてやろう。それがせめてもの、彼への・・・償いになるなら。


・・・この角を曲がれば、すぐそこが八峰の部屋だ。もっともそこは八峰が毎日、千沙のいる長屋へと帰宅してしまうが故にほとんど使われた
ことはなかったけれど。それでも彼の着物や、刀、そして身の回りのものは確かに安置されているままだ。



「・・・・・・さ、千沙さん。 この部屋だよ――――――」



浮竹は先刻した誓いを改めて己の胸のうちで呟く。
そして大きく深呼吸をして、がらりと、一気に障子を開いた―――・・・。




しかし、その刹那だった。




浮竹の視界のほんの、端に―――きらりとなにか、鋭いものが走った。




「――――――ッ!? くっ・・・!!」




迷うことなく一突きされた光。浮竹はなんとか持ち前の反射でそれを間一髪でかわすがしかし、右手に何か違和感を感じて
腕を上げてみてみれば―――そこは切断されて、ぱっくりと肉が見えていた。斬られたところが悪かったのか、軽い音を
立てて鮮血が噴出し、畳を―――主を失った部屋の畳に、パッと散った。

一体何が。しかしこんなことを出来ることが出来る人物は一人しかいない。認めたくないが、心の中ではどこか諦めたような、
冷え切ったような己がいて、双方の心に揺れる。揺れながら、迫り来る殺気がやってくる方向を見やる。
するとまたすぐに、驚きで一瞬方向感覚を失った浮竹の背後から光が迫って―――今度は完璧にかわすが、それならばと執拗に
光は浮竹を追いかけてくる。何の訓練も受けていないでたらめな剣閃はしかし勢いだけはどうしてなかなかすばやくて、至近距離で
避けるのがなかなか難しい。不恰好になりながら、しかしその剣を振るう正体を意識すればするほど反撃など出来なくて。瞬歩でも
使えばいいことくらい分かっている。しかし、己の体調が優れないことよりも勝って・・・その邪魔をするものがあった。



「・・・ッ! くっ―――・・・!」



―――ドタッ・・・!!


後ずさりながら、その光を受け止める機会を伺っていたが終に部屋にある何かに毛躓き、倒れこんでしまう。しまったという
言葉が焦る浮竹の脳裏を掠める。
まずい。こんな無防備なところに刃を振りかざされれば間違いなく致命傷になる。

ならば――――――・・・!

世界線に逆らうことなく浮竹の重い体は地面へと叩きつけられようとしている。
ほんの瞬きの間で決断した。
受身をすることを捨てて、目の前から迫ってくるであろうあの光を見定めた。






浮竹に狙いを定めていた光は、途端興味を失ったかのように冷えて、消えた。刃の切っ先は今、勢いを失って浮竹の鼻先で止まっている。
間一髪で千沙の腕を取って刃を止めたのだ。
それでもなお刀を押そうと力は篭って左右にもがく。だが大の男一人の腕力に幼い少女の力が勝るわけもなく、ただ虚しく震えて刃は
カタカタと音を立てているだけだ。

ようやく形勢が逆転したところで、浮竹は改めて目の前を見た。
一度だけ使用された鈍色の鋼に己の緋が伝い、頬に垂れてくる。短い刀身を切っ先から辿れば、いかにも豪華に設えられた漆黒の柄が見えて
それを丸くて小さな手が握っている。
そのままの形で床を見れば、ついさっき抜いたであろう漆塗りの鞘が物悲しくその場に放り出されていて。そこに描かれた金色の鶴はこの
鈍い雲のせいで輝くことはなくただそこにへばりつくように舞っていた。




「・・・っ何故――――――」





これは聞いてはいけないことなのかもしれない。
だが、先刻誓ったはず。錯乱して泣き崩れるかもしれない彼女を受け止めようと決めたではないか。自分を襲った理由が一体何であれ
それを聞くことは己の責任なのだ。
馬乗りになりながら、ぴくりとも動かない刃を突きつけながら、




「だっ、だって・・・!」




まるで駄々をこねるような、父親に叱られた時のような口ぶりで、少女は慟哭した。




「だって!! 霊圧もない小さい私には父さんを奪った虚は殺せない、もの・・・!!」



―――――――――・・・・・・。



その一言で全てを悟った。
戦う力すら持たない千沙は、あの虚に復讐することも出来ない。



「父さんを危険な任務だと知っていて送り込んだのは、あんただっ! 浮竹十四郎!!」




だから――――――。



「それに、父さんが命をかけて戦ってたとき。 瀕死の傷で苦しんでいたかもしれないとき――――――。
 ――――――あんたは護られて、のうのうと布団に横になっていたじゃないの!!」



相馬八峰を殺したのは浮竹十四郎ではなく、虚だ。そんなことは聡明な彼女は分かっている。
だが一方で千沙は、浮竹が命令さえ出さなければ虚に殺されることもなかった。故に、彼が八峰を殺したのだと―――
何日経っても収まることを知らない、やり場の無い烈火の怒りの矛先を手近な浮竹に向けたのだ。
予想に過ぎないが、この何日間かの失踪はもしかすると・・・この襲撃を練習していたのかもしれない。そう思えてしまうくらいに
今の千沙からは莫大な殺気が伝わってきている。それに、部屋を開けているその瞬間に迷い無く襲ってきたという事実を鑑みても
この襲撃が少なからず計画的なものであったと嫌でも予想がついてしまう。


ぐ、とまた刀に力が篭って、千沙はその大きな眼からぼたぼたと大粒の涙を零す。
底冷えした恐怖感と絶望感に浮竹は動けなくなる。


が―――・・・。


「っ!?」


ぱっ、と浮竹は突如、千沙の腕を放した。


「なら・・・・・・」


一体どうしたのか。気でも触れたのか。
猜疑のあまり刀をそのまま振り下ろすことも出来ずに、千沙は憎い仇の動向を観察する。


「なら、気が済むまで俺にあたれッ!!」


――――――ガッ!


千沙の身体が均衡を失う。浮竹は何を思ったのか、先程まで掴んでいた千沙の腕を再び取った。しかし今度は―――千沙の刃を
己に突き刺すようにして。
これには流石の千沙も驚いて、思わず、


「なっ、・・・な、ん・・・で・・・!?」


つい先程まで殺そうとしていたのにも関わらず、ふとそう口走る。涙を未だにぼろぼろと零しながら、己を刺せと叫ぶ一人の
死神を見て、固まった。




「相馬八峰の嘘に気づけなかった―――俺の責任だ! 上官とは、そういうものだッ!!」



浮竹の力強い腕は千沙の握る小刀を軽々と動かして、己の心臓の上まで持ってゆく。怒りの篭った力に幼い身体は不恰好に引きずられ、
それでもなんとかしがみついている。ふと彼女は見開いた目で刀の先を見つめる。死神を殺めることのできる武器が、いよいよ目的を
遂行できる目前のところまで来たというのに千沙の足はそれを自覚した途端にがくがくと震えだす。先からの怒りからのそれではなく
間違うことなく今度は恐怖のそれで。



「どうした、俺が憎いんだろう!? 早く―――刺せ、殺せッ!!!」



どうして。
どうして?
一体、何故。

何故。 何故! 何故!? 何故!!!

理不尽なわがままを一身にぶつけられているのに、この男の目はこの世の何よりも澄んでいる。激昂を湛えてはいるけれども
きっとそれが映しているのは私なんかじゃない。諦めでも、自暴自棄でもなくて。それがその透明さを創っている原因で、
その怒りは何よりも――――――



自分へと『剥いて』いるのだ。



「う・・・っ! く、う・・・、ううぅッ・・・!!」



ほんの数寸。迷うように刃は進むが、凄む男の顔を前に幼い千沙の心は激しく狼狽する。彼の心臓に近づくにつれてまるでそこには
何か反発力が働いているかのようにがたがたと震えるだけで、刃がそれ以上進まない。むしろその度に何か自分は取り返しも付かない
恐ろしいことをしようとしているのだという冷静な考えが憎しみに火照った脳を冷ましてゆく。

いいやだけれども、間違いなくこの男が命令など出さなければ、父さんは、死ななかった。少なくとも、生きてたはず。いいや、けど、
殺したのはあの虚で、肉体を引き裂いてその命を終わらせたのは、母さんの身体を喰らったのも、村をめちゃくちゃにしたのも、
私達の生活を、
幸福を、
でも、
だけれども、
この男にさえあわなければ、
だが、それは父さんが護ろうとして、
何を、
でも、だけど、
命令さえ、
けど、いや、
でも、しかし――――――。











「うっ・・・ぁあああ!! ぁあぁぁ゛ああぁあ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーー!!!!」



―――ばっ!



「!?」


ふと腕が、逆方向の力によって振りほどかれてしまう。強く握っていた柄は己が手にはもうない。浮竹は刀ごと千沙が消えたことを悟り、
一体どこに行ったのだと急いで身を起こして周囲を見回す。


―――すると千沙はいつの間にか、八峰の部屋の廊下から続く少しばかり開けた庭に出ていた。
降り注ぐ雨など気にも留めていないのだろう。ただ刀を手に力なくぶら下げながら、雨に打たれながら途方も無く佇んでいて。ぼろぼろに
なった古い着物は生地の浅葱をより濃い色にして、びしょ濡れになっていた。浮竹に背を向けるようにして立っていたからその表情を伺い知る
ことは出来ないけれども、彼女の傷に塗れた様を無遠慮に暴くほど無粋ではないし、己の感情のままそうすることが許されないことも知っている。

だから彼女は先刻までの絶叫が嘘かのようにしいんと静まり返ってただそこに『居た』。



大方、浮竹の覚悟に恐れおののいて改心でもしたのだろう。



だが、よかった。それは己の命が危険にさらされることに対する安堵ではなく―――。
無垢で汚れを知らない幼子である千沙が手を血に染めることなく、己の行動が過ちだと気がついて定義して、復讐の血に溺れなかった―――
浮竹は斬られた腕の痛みを己の甘さの痛みと受け入れて、苦痛に瞳を伏せた。


戦の後は―――だから、嫌いだった。
罪の無い者が罪の無い者を苛み、恨み、呪うから。憎しみの原点である核に怒りが向くことはあまりなく、その周囲の無実の存在に
向くことが多々である。そういった理不尽の渦に囚われてはいけないのだ。やはり憎しみからは何も生まれない。相馬八峰もその
うねりに飲み込まれて命を落とした。
せめて彼の遺した愛娘がその果てない連鎖のうねりに飲み込まれなくて良かったと―――不幸中の幸いに、心の底から安堵して。






「・・・・・・そうだ・・・。 ・・・最初からこうすれば、よかったんだ」





何をもいえなかった無音空間に、小さな千沙の呟きが何故だろう。やけに響いて耳に届いてくる。
その声音はやはりまだ震えてはいるが、どこか吹っ切れたかのように明るくもあった。



「今更こんなこと言う資格なんてないかもしれないけど―――・・・ありがとう、隊長さん」



一体何に感謝するというのだろう・・・。確かに彼に命令を出したのは自分で、彼を殺すはめになったのは、自分のせいなのに。
もの悲しく庭に突っ立つ千沙を見やる。だらんと垂れる形見の小刀はすっかり雨に濯がれてもとの色に戻っていた。





「 『最期に』わたしを正気に戻してくれて 」




ふとだらりとしていた鈍色は弧を描き、『アノ』銀色光を散乱させた。


一体何を。


そう思ったときにはもう、遅かった。


短く切られたおかっぱが少し、揺れて。後頭部と背を繋いでいた細い首から勢い良く真っ赤な血飛沫が上がる。深く抉られた
のであろう頚動脈からはまるで大粒の血色の雪が空中に大量に降りそそぐかのように映った。重力に逆らうことなく雪は大地に
ぼとぼとと落ちて、土とぶつかってその場にべちゃべちゃと拡がった。子どもの頭は身体に比べて大きく重たい。そのことが
不幸にも、倒れこむ際に身体と首を反対の方向に曲げ、尚のこと深く切られた首はその裂口の皮を容易くびりびりと引き
裂いては、尚のこと真っ赤な雪景色がその場を染めた。



「―――――――――」



本来ならばすぐにでも駆けつけるところだったが、あまりにも一瞬のことすぎて浮竹の身体の反応は一歩遅れる。千沙の
浅葱が真っ赤になって倒れこんだところでようやく浮竹は、恐る恐る、立ち上がった。目の前で起こったことが惨たらしくて、
信じられなくて、幽霊を見たかのように足がすくんで思うように前に進まない。最早ずるずると思い肢体を引きずるように
してようやく廊下まで出て、足袋のままでぐしょぐしょの土に降りる。筋肉に力を込めるが関節に上手く伝わっていないかの
ように、躓きそうになる。泥濘はさほどであるはずなのに、酷く足が重い。ずるずると轍を作りながら浮竹の茶に汚れた足袋に
真っ赤な色がぼんやり滲み始めた。布越しに伝わってくる温度はまだ暖かく、先程まで彼女の中に流れていたものだと
すぐに解った。

まだ彼女の首からはびゅ、びゅ、と真っ赤な血液が飛び出している。心臓はまだ生命活動を続けようと必死だが、やがてその
勢いも段々と収まってくるのだろう。証拠に、朱色の放物線は頂点を低くしていっている。捩れた首の上にかろうじて繋がって
いる顔はカッと目を開いて。その白目は真っ赤に充血している。故に涙を流しているのだろうが、この雨では生憎それが
どれなのか判別が付くはずもない。
ただ隣に置かれた抜き身の短刀が、ごろんと転がって彼女も最早―――コチラガワ―――無機質な―――死体であることを
嫌に主張していた。



様々な感情が入り混じって、煉(や)けるような濁流に心の欠片すら付いてゆけない。


浮竹は死体処理をすることもなく、ただただそこに、立ち尽くす。




――――――ざあああぁぁ・・・




「・・・・・・、さ・・・・・」





雨を全身に受けて呆然とする浮竹の背後でふと、声がした。




「ち、沙・・・。 ちさ・・・ッ、千沙・・・・・・ッ」




その者の声は聞いたことが――――――ある――――――・・・・・・!?


千沙の自害に麻痺していた脳は、急激に覚醒させられた。
浮竹は心から始まり全身を揺さぶるような直接的かつ急激な衝撃に、引きつったかのような視線を声のする前方へと向けた。



いや、しかし、そんな筈は無い!
何故ならば、この声の持ち主は、もう既に――――――!




千沙の肢体―――死体―――のその向こう側。ちょっとした勾配に逆らわず流れる真っ赤な鮮血の河の先。
視界から入ってきた無機質な情報は、この世に神など存在していないのではないかと思ってしまうくらいに、


無慈悲だ。









「千沙――――――!?」








目の前には先刻自分が死亡報告書に判を捺した張本人――――――額に大きな十字型の紋を負っているが間違いなく――――――


『元』十三番隊副隊長、相馬八峰が立っていた。




























**************************

*52話でした。ついに八千代編クライマックス・・・といったところでしょうかね。
 千沙は聡明な子として書いています。だからこそ、父親の嘘も全部見抜いてるし、父親の死の原因が
 浮竹ではなく、虚にあるということも分かっている。でも、『解って』はいない。
 もし皆さんの大切な人が誰かに殺されたとして、そしてその犯人が刑法に護られた者だとしたら。
 事件とは直接的に無関係とはいえ、その犯人の弁護士(これが犯人の刑をとても軽くしたとしたとしたら)
 がいたら。少し浮竹の例とは違う気もしますが、もしそんな人がいて、自分が被害者遺族であったとしたら。
 ・・・千沙の気持ちは本当に逆恨み以外のなにものでもないですが、そんな例を考えてくださると少しは
 彼女の気持ちもわかるかもしれません。

 重たい話です。藍染たちの話とはまた違った。
 ただ、組織として戦うということはこういうことは覚悟していなければならないと思うんですよね。だからこそ
 浮竹隊長に、千沙に「殺せ」と言ってほしかった。それが「憎しみで行動することなかれ」と主張する者の責任であると。
 
 弱い人は憎しみや恨みを他人にぶつける。強い人はそれを否定し、否定する立場にいる責任として、その恨みが
 自分に向けられた時は目をそらさずに受け止める。そんな強い人の理想像のうちの一人を浮竹隊長に担って欲しかった。
 藍染隊長も私の定義のなかで「強い人」ではあるのですが、ちょっと浮竹さんとは違うベクトルの「強い」なのです。

*さて、次回―――還ってきた八峰は一体どうして還ってこれたのか。というかそもそも八峰なのか。十字傷って、アレ?
 もしかして―――・・・。色々想像が膨らんでくださると嬉しい次回。笑

 私自身書いていてとても悲しいお話ではありますが、どうかご応援いただけると嬉しいです。


*それでは、今回はここらへんで。








6:47 2010/10/09