第五十三話「八千代ならざるもの」
「―――はっ? ・・・・・・けん、さ??」
そろそろ日も傾きかけてきた頃――少し遅い水遣りのために襷をかけて準備をしていたは素っ頓狂な声を上げた。
「覚えているだろう? 先日、君自身がしたことを」
珍しく何か思惑ありげに正面に立たれて。何だ庭の世話を手伝ってくれるのかと思いきや、なにやら違うようだ。
藍染にそう渋々、とてつもなく面倒くさそうに言われて、ようやく片手間にうーんと唸って、・・・
「私が、何かしたか?」
思い当たらなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
本性を明かす前の自分であれば相手を傷つけるかも知れない危険を孕んだ言葉を使うことなど決してしなかっただろうが
最早その懸念は払拭されている。思うままに単刀直入に、藍染はぽけっと固まるに先日起こった『異常事態』を説明
してやることにした。
「君は先日、虚から破面を創造した」
「ほう」
「虚が自らの面を剥がす事は稀にあり、今まで発見された破面はそうして虚から破面になった。 天然の破面はそうして
生まれるが、その変化に魂魄限界強度が耐えられずに崩壊するものは多く、全体的に完全な成体の数が貴重なのはそのためだ」
相変わらずの回りくどい藍染の演説に、は少し苛立ちを見せる。彼の表情を伺う限りこの話が終わるまでは外に出して
はもらえないだろう。
「一体何が言いたいんだ」
そんなことはここにある数ある文献を読むうちにとうに知っていることだ。わざわざそれを持ち出してくるとは一体何が
言いたいのだろうか。早く外へ出て水をやらなければ大分土壌は回復してきているとはいえ、自然摂理では考えられない
ほどに頽廃の進行度も早いこの「血濡れの土地」に根を張る草花は、その身を枯らしてしまうというのに。
窓から外を眺めれば、今日はまた一段と白色光がかんかんに土を焼き照らしている。朝にやった水ももう無いのだろう。
土は黒く重たい色をすっかりと無くし、明るい茶へと姿を変えている。待ちかねて、藍染の言葉を待たずに横を突っ切ろうと
するが、
「虚の面を人工的に剥がし―――しかしその実、面にまともに触れることなく『何かの力をもって』剥がし・・・。
更に、・・・・・・」
もとからさほど声に本当の感情など篭っていない彼だったが、毎日生活を共にするうちにその微妙な差異に気がつけるようになって
きたに、その声はどことなく冷たく聞こえた。しかしその冷たさは、冷酷さといったありきたりな覇者のソレではなかった。
それよりももっと、そう、理解できないという冷たさをもって・・・不思議だと述べるかのような、そんな声音で、は横に
いる藍染の瞳を勘ぐるようにして見つめる。
「虚の定義は覚えているな」
「・・・・・・・・・」
「限界強度を超越する際の苦痛を味あわせることも無く、安全に、かつ確実に―――面を如何にして剥がしたということも興味の範疇
ではあるが。 それ以上に興味深いのは・・・そう」
「・・・『心』を持った虚、いや・・・破面を創ったこと、か ―――――― ?」
いや、違うな。藍染は笑った。
「正確には、心を取り戻しに行く―――『空虚な孔を埋めうる成体破面を創造したこと』、だ」
の脳裏に、先日の夜が反芻した。確かに、自分はあの時とにかく必死だった。藍染が危険にさらされているということも勿論であった
がなによりも、あの脅威としか呼べない虚から人の声が聞こえてきて。それがなんとも悲哀に満ち満ちていて、頭に、心に、直接響いて
全身を鷲掴みにされた。使えなくなった虚だと処罰を下さんとする藍染の腕をなんとか止めて、その悲しみをなんとかしたいと思った。
救いたい。掬いたい。だけれども具体的な方法が咄嗟に思いつくわけでもない。ただ虚の体の中心から溢れ出てくる悲壮な声を一つ一つ
受け止めてゆくしかできなかった。
そうしていたら不思議と虚の暴走は収まってきて、さらにはあの己の身の丈何十倍もあった巨体は骨組みを急激に変えて、自分達の姿と
寸分違わぬ様になっていたのだ。確かにあの大きな面には触れたものの剥がそうなど乱暴なことは出来なかったし、剥がせば苦しみが
止むことなど知らなかった。思いつくわけが無い。
あの虚の存在証明は、その虚半魂魄の娘にあった。
故に、なんとかしてそれを叶えてやりたいと・・・そう思っただけだ。破面を創ろうなどと疚しい気持ちなど一切なかった。あの状況で
そんなよこしまな思いが思いつくほどの余裕などあるはずも無い。ましてや、心を埋めうる・・・いわゆる完全体な破面を作ろうなどと
思いつく訳が無い。
「それだけではない。 君は覚えているか解らないが、この私の不可避な完全催眠を溶かしたこともそうだ。
更に加えれば、霊圧は微塵も感じられないのに霊気を振るわせることも、頽廃しきった土地に草花を驚異的な速さで再生させている
ことも、理解の範疇を超えている」
「・・・・・・・・・」
「総てが異常だよ。 不常であり、格外であり、不条理であり、不合理であり、尋常ではない。 君の持ちうる能力は」
そう言われても、たとえ詰られたとしても、自分自身そんなことわからないのだ。藍染にはっきりそう言われて―――
『君はおかしい』と言われて初めては鉄臭い血が流れる己の肉体のどこか中心に、どす黒い逸物を抱えている
のかもしれないということを意識せざるを得なくなった。
「そう、つまり君は――――――狂っている」
だが、それも私であれば完璧に解析出来る。
そしてという不可解であやふやな存在を理解することが出来る。
たとえそれが、ただ藍染の興味本位からきている探究心によるものでもいい。ただ不可解な力を検査する口実にしたいだけ
でもいい。むしろ、そうであって欲しい。どことなくには嫌な予感がしていたけれどもその確固たる根拠もなく、彼の
調査はどうせ無駄なものであろうと軽く思っていた。
まあここで生活をさせてもらっている身の上、彼に協力してやってもいいか。
は買いかぶりすぎだと藍染を笑って「はいはい水遣りが終わったらな」と述べて、そそくさと庭に続く扉を開けて外に
出て行った。
一体何をそんなに不思議がっているのだと思いつつも、やはりなんだか虫の居所が悪くなる。それもそのはずだろう。
あのように幾千の書物を読み、その論理を完璧に理解している博識な者に、君は明らかにおかしいのだときっぱり定義されて
気分が悪く成らないほうがおかしい。
・・・このまま考えていてもどうせ藍染は検査とやらをやらないと気がすまないのだろうし、これ以上考えても全て無駄な
だけのような気がする。は大きなため息をひとつつくと、水を汲みに水場へと足を運ぶ。
しかし、
ゴロ・・ゴロゴロ・・・・・・
「・・・ん? 遠雷か?」
考え事をしていて地面ばかり睨んでいたの耳に、はっきりと聞こえてきた。
遠くで雷が音を立てている。ぱっと振り返って庭の向こう―――庭自体が地面に対して切り立った丘になっているため、崖のようになっている
ので見晴らしがよい―――を見てみれば、いつの間にかねずみ色の雲が一杯に充満していた。その数少ない隙間から太陽が差し込んだものが、
先程窓から眺めた庭を照らしていたのだろう。あの時は窓のさほど近くで外の景色を見ていなかったから、空の様子までは気にかけられ
なかった。さてどうしようものか考えあぐねているうちにみるみると雲は重たくなり、暗闇を作ってゆく。雨が地面に吸い込まれることによって
香る独特の匂いもやってきて、こんなに急激に天候が変化することもありうるのかとやけにこの場にそぐわない感心をしているうちに、ぽつりと
冷たい液体が彼女の頬に落ち、すっと流れ落ちてゆく。
雨だ。
ごろごろと再び大きな音が腹に響く。このまま水遣りをどうしようかどうか悩んでいるうちに、そんな彼女の悩みなど放っておいてどんどん
雨の勢いは増し、更に大粒になってゆく。
「こ、これじゃあ水遣りは必要ないな」
時間もさほど置かぬうちに再び藍染に会うのは少し気が引けるけれども、この雨では風邪をひいてしまう。それに、落雷にでもあたったら
ひとたまりも無い。
一旦研究棟に戻って出直すことに決めた。
ようやく雲がここまで来たということは、もう遠くの地ではとっくに雨が降っているのだろう。
「・・・・・・・・・・・」
遠く、遙か遠く。雲が伸びてきている方角。
それはあの破面が飛び去っていった方角で――――――は引き返す前にただ一つ、胸の中で彼の幸せを再度、祈った。
「どうか、幸いを」
【流星之軌跡:第五十三話「八千代ならざるもの」】
雨はいつの間にか勢いを増して、いつしか滝のような有様になっていた。
小さな体目一杯に流れていた血液はその雨の如く止むことを知らずに流出してゆく。
緋色の河が引かれて、その下流で男は、嘆く。
「千沙・・・! 千沙ァッ! そ、そんな・・・ッ!!」
彼女を直接的ではないとはいえ―――殺める原因を作ってしまった張本人である浮竹は、様々な感情の濁流に飲み込まれるのを必死に
堪えている。
罪悪感、焦燥感、絶望感、脱力感、虚無感、危機感、――――――違和感。
情報は確かに入ってきてはいるのにも関わらず、そしてそれを持ち前の冷静さでもって整理出来ているのにも関わらず、しかしその実
統合出来ないのだ。
死んだ筈の男が―――先の虚の大群との戦いで命を落とした筈の、相馬八峰が―――そこに立っていたからだ。
「あ・・・ああ・・・っ! 千沙・・・ち、さ・・・っ」
だが、ようやく彼が己の目の前で死んでいる千沙に駆け寄った時、待てと心の中で大きな声が上がる。先程から感じていた違和感に
ついて浮竹はやっとのことで追いついた。
彼は死んだ。確かに志波海燕はこの目で彼の霊絡が消えて無くなったことを目で確認している。そのほかに彼を目撃した者はいなかった
が、探知能力に優れた自分が彼の霊圧を探っても水に一石投じられることもなく、彼の霊圧だけがぽっかりと消えた。そうしてようやく
自分は、そして護廷十三隊は彼の死を決定したのだ。
それは確かだ。
今、彼の霊圧を探ってみても、それはなかった。いや、正確には――――――『霊圧が以前のものとは違っている』。
加えてこの体―――。
首がおおよそ自然ではありえない方向に千切れてべたんと折れている小さな千沙の頭蓋を掻き抱く八峰・・・いいや、その男は、以前の
姿とはうって変わっている。死覇装は上半身だけずたずたに破かれており、肩甲骨からは大きな黒い翼が生えている。尾てい骨あたりからは
これまた漆黒に染まった獣のような尻尾がだらりと垂れていて、すっかり蒼白くなった千沙の頬を何度も何度もなぞる指の爪は発達しすぎて
いて、長く鋭いそれは残念ながら千沙の死した柔肌を何度も傷つけている。この大雨のなかでもはっきりとわかる大粒の涙を惜しげもなく
その白地に零すその顔は―――違うことなくあの相馬八峰であったが、大きな違いがひとつだけあった。
「・・・・・・・・・・・・」
まさかと思って顔を注視するが、ぎゅ、と彼は今一度娘を抱きしめてその顔を隠してしまう。同時に彼の悲哀に満ちた慟哭も終わり、その場
は雨が地面に打ち付けられる音だけが幾重にも拡がってゆく。そして死に至らしめたであろう原因である自分に―――八峰の激昂の矛先が
突きつけられるのかと身構えた。
が、
「ああ・・・大丈夫・・・だい・・・じょうぶ、だいじょう・・ぶだ、よ、だいじょう」
血にぐっしょりと濡れそぼった千沙をしっかりと両腕に抱きかかえたまま、だらんと身体をしならせて八峰は立ち上がる。
頭は未だ項垂れていてその表情はうかがい知れなかったが、そううわごとのように呟く彼の声には段々と力が篭って
笑っているような気すらする。
「千沙、大丈夫」
「!?」
ふと、グパッという何かが開いた音がしたと思ったその次の瞬間。
八峰の胴体の丁度真ん中辺りが一直線に縦に裂けた。
首から腸にかけてできた裂口からは内臓のような紅色をした何か『器官のようなもの』―――そう、喩えれば腸を何本にも編み
その周りに極太の血管がみっちりと張り付いているようなそれ―――が、数十本噴出した。飛び出したそれと一緒に彼の血飛沫も
地面に散るが、この大雨でそれはすぐに流されて綺麗になってしまう。一体何が起こっているのだと目の前の気色悪い光景を観察
していると、更に信じられないことが起こった。
腹から出てきた何十本もの触手のような腸のようなものが、ぴくりとも動かない千沙を絡め取り出す。生き物かのようにうごめく
その腸はまるで彼女を待ち望んでいた『養分』であるかの如く、ごくりごくりと喉を鳴らしながら飲み込んでゆく。待て、と声を
荒げそうになったがしかし、次なる光景にその声は喉の奥で思わず引っ込んでしまった。
ブチュブチュと不気味な音と共に、ついに内臓むき出しの八峰の体内にすっかり千沙は食われてしまった。が―――しばらく八峰の
動きがここで止まる。内臓はぼこぼこと泡を立てて変化し、まとわりつく血液は雨が余すところ無く持ってゆく。
「・・・・・・・・!?」
八峰の身体が急激に振動しだした。いや、正確には振動しだしたのではなく―――内臓全体の『泡立ち』が激しさを増したせいで
身体がその筋肉によって引きずられ、震わされているのだ。なんとか内臓を形成している筋肉繊維ももう耐え切れないのだろう。
ぶちぶちと音を立ててその枠組みを変えてゆく。自然崩壊でもするのかと注視する浮竹だったが、予想は遙かに悪いものへと
変わってゆく。
筋肉は一度は切断されたものの、また結合・再構成されてゆく。筋肉の切れる気味悪い音と、骨の折れるような音が雨の音に混じり
ながら、そしてそれはある一つの規則に則って縫合・結合されている。
「う・・・・・・っ・・・嘘、だ――――――・・・」
信じられないことが、起こっている。
「ちさ・・・千沙・・・・・・。 起きなさい・・・もう、朝はとっくに過ぎてるぞ・・・・・・」
そんなはずは。そんな、筈は。
「・・・・・・・・・・・・」
八峰の鎖骨下あたりから、千沙の首から上が『生えて』いた。相馬千沙は今―――父の身体と融合・同化した。
八峰は彼女に優しく語り掛ける。そうそれはまるで日常会話のような自然さで。おそらく彼らの朝は、この一言で始まっていたのだろう
と思えるくらいの、自然さで。
まさか応える筈は。だって彼女は確かに首を斬って自害したのだから。だがその予測も、すぐに否定されることになる。
目を閉じたままのおかっぱ頭は、しかしそう言われるとゆっくりと目を開けたのだ。
「・・・生きてたんだね。 やっと会えたんだね、父さん」
「ああ、そうだよ」
「もうこれでずっとずっと一緒だよ。 『桜花苑』にも一緒だよ。 ずっと、ずっと、ずっと、ずぅっと・・・!!」
身一つに、双つの頭。異国の地での神話に称されるキメラという化け物がいたが、彼らの今の容姿はそう形容するにふさわしかった。
だがしかし、八峰と千沙の顔は生前のそれと全く変わらない。瞳も狂ったような色は見せていない。ただ身体が本当に一つになって
しまっただけのことのように異常さは感じられない。
ただひとつ――――――八峰の顔に引かれている、大きな十字の仮面紋を除いては――――――。
「ああ、そうだ。 ずっと一緒だ。 だって千沙・・・ここには母さんも・・・村の皆もいる」
凍て付くような気味の悪さ、自然摂理が捻じ曲げられてしまったことに対する久方ぶりの恐怖が、浮竹の眼球を、顔を、身体を
仕様も無く固まらせる。震えだしそうな足をしっかりと地面に押し付けて立てばぬかるんだそこにずぶずぶと飲み込まれてゆくような
感覚さえ、思考に泥を塗りつけるかのよう。負けじと見開いた瞳でしっかりと現状を把握する。
「皆もここにいる」という彼の言葉―――八峰の瞳は空ろでもなんでもない。瞳孔が開いているわけでもなく、何者かによって操作されて
いるようではなかった。
だが、あきらかに言動がおかしい。幻覚でも見ているのか?
「もう一度やり直せるんだよ、俺たち! ・・・しかもこの幸せは八千代に約束されてるんだ」
八峰は首をぐるりと回転させながら隣に『生えている』千沙に興奮気味に微笑みかける。千沙はそう言われると瞳をゆっくりと閉じて何か
を感じ取るかのように、また味わうかのように大きく深呼吸をした。
そして、彼女もまた八峰のように興奮を抑えきれないといったふうに、声を震わせて涙した。
「ああっ・・・わかるッ、わかるよ、母さんっっ!! 母さんも、皆も!! ココにいたんだ!!」
父の意に応じ右腕が、娘の意思に応じ左腕が、それぞれ自らの身体を掻き抱く。あばら骨はばきばきと音を立てながら戻り、むき出しになって
いた内臓は伸縮を繰り返しながら塞がり、やがて皮膚に覆われて見えなくなった。
認めたくは無いが―――浮竹の頭の中では今迄の光景からあるひとつの仮定に行き着いていた。
この八峰―――と、千沙―――の身体の特徴は、とても良く似ていたのだ・・・破面に。死神人生の長い自分であってもまともに見たことは
数えるほどしかなかったし、完全な状態で見たことは文献の寫眞でしかなかったがしかし彼の特徴は酷くそれに似ている。そう仮定したとすれば
一度死したはずの千沙が意識を回復させたことも頷ける。それに、彼が一体どのようにして破面になったかを推測すれば、そしてそれが正しいと
すれば、なおのことその理由ははっきりと固まるのだ。
そう、千沙を回復させたのは間違えない。 ・・・超速再生だ―――。
「・・・・・・・・・・・・」
きゃっきゃとはしゃぐ無邪気な声は、ほんの数日前に聞いていた声と全く変わらない。
形見の刀で浮竹とちゃんばらをして、帰還した父親にとがめられ拳固を喰らって文句に口を尖らせる姿、少し背伸びをして父を困らせる生意気を
吐く表情、墓参りをしていた時に見せる無表情を気取る精一杯の強がり。
何もかもがあの日と一緒だった。
「なに刀、構えてるんですか? 浮竹隊長。 俺ですよ、俺! 相馬八峰です」
地面に落ちていた形見の小太刀。
この雨と泥で滑りそうになるがしっかりと柄を持って、半身引いて、その照準を『奴ら』に合わせる。
「ははっ、一度は死んだと思ったでしょう? ですが、こうして蘇ったんですよ」
ほら、と笑う微笑は彼のもの。そのものだ。豪快に、にっかりと笑ういつもの、有りし日の彼そのものの。
だが、違ってしまった。
過去のお前とも、過去の君とも、過去の貴女とも、過去の貴方たちとも。
そして違う、のだ。
過去の・・・俺とも。
「嘘だ」
浮竹は、きっぱりと言い切った。
「忘れてしまったのか。 君の異名は『空纏』。 君の言葉は全て――――――嘘だ」
間は数尺。挙動を伺いながらにじり寄って、間合いを詰める。
「なぁに言ってるんですか。 この期に及んでそんな嘘ついて・・・さすがの俺でも空気くらい読みますって」
八峰はいつものように、くしゃっと笑って苦笑する。そして刀を構えながら詰め寄ってくる浮竹に対して両手を広げておどける。
千沙は両目からとめどなく涙を流しながらも、首だけでこちらを見つめて笑っている。その瞳はこんな鈍い空の下であってもきらきらと
澄み切って、輝いている。
「君の奥方はとっくに亡くなられているし、これからの人生なんてやりなおせない。 なぜなら君は・・・」
つぶらな瞳で、父の心と同調して。
さあもう間合いは十分。
浮竹はぐらつく心をしかりつけて、ぎっと強いまなざしで二人を睨んでから強く言い放った。
「・・・『お前』は、堕ちてしまった。 君は『空纏の八峰』ではなくなってしまったからだ」
もうお前の嘘に騙されない。もう、お前の真実から逃げない。
もう。
「そんなお前が千沙さんとずっと一緒にいられるわけない。
護るべき三人の名を失った・・・『八千代』ならざるお前に待つものはただ、死という名の終焉」
せめて苦痛を与えることのないよう。霊圧が一気に上がる。
木々はざわめき、天から地にまっすぐに降ってくる雨は浮竹を中心にして放射状に飛び散った。濃い霊圧のために視覚化された白い霊圧が
浮竹と、異形の破面―――『八千代』の間を駆け抜けた。
そしてついに、浮竹は高々と声を張り上げる―――。
「一度死した者は、決して還りはしないんだ!!」
「隊長・・・・・・なにいって」
とん、と短い音がして。
次の瞬間、背後にいた破面『八千代』の背から多量の血が噴出して、膝からがくりと崩れ落ちた。
周囲に拡散されていた霊圧を圧縮して再び体内へと回帰させ、ぐっと柄を握った。その白い手には血がべっとり滴っていた。
「・・・違う。 ・・・空言だ」
背中合わせになりながら、浮竹の唇はかたかたと震えだす。
「君たちを八千代から外れさせたのは俺だ。 今にも切れそうになっていた君たち家族を狂わせてしまったのは、俺の命令のせい。
全て俺の責任だ。 俺を・・・俺を、憎め・・・相馬・・・ッ!!」
霊圧を纏わせた短剣によって空いた孔は、八峰と千沙の胴体をしっかりと貫いていた。最早筋肉は雲散霧消し、辛うじて鎖骨と背骨
そしてそれに繋がっている下半身が残っているだけだった。超速再生を使おうにもこの損傷率では不可能だ。身体はそう判断したの
だろう。豪雨の勢いにすら勝てなくなって、結合を解き、どろどろになって膝もろとも地面に崩れてゆく。
内臓は紅色の液状になり、ついにそこに首が混じる。
「あれ・・・・・・いつの間に隊長まで嘘吐きになってしまったんですか?」
液状内臓に触れた箇所から腐食は始まり、首も顔もそして毛髪もどんどんと液体になってゆく。
八峰は残された僅かな時間を噛み締めながら先の浮竹にも負けない大声で、ただ困ったように、照れくさそうに、笑った。
「ありがとうございます、浮竹隊長。 今までこんなにいい待遇をしてくれたのに、恨むなんてありますか、憎むなんてありますか」
「・・・嘘だ」
「本当ですよ」
「君は『空纏の八峰』。 だから・・・嘘だ。 嘘だと・・・言え!」
咎める様子などこれっぽっちも無くて、むしろ今わの際を覚悟したかのような凄く優しい声で、やるせなくて、はち切れそうで、堪えきれなくて。
浮竹はいつの間にか背後を振り返って、八峰にむかって無様に叫んでいた。
「言え! 嘘だと・・・! 言え!! ・・・ッ! 言ってくれ――――――俺を、憎んでくれ・・・!」
慟哭が響く。
だけれどもこの大雨では、誰に届くことも無い。目の前で死に行く、彼らを除いては。
ふふ、と力なく笑って、八峰はすぐそばで同じく腐食してゆく千沙と顔を見合わせて、言った。
「隊長は先刻、『お前は空纏の八峰ではない』と決めたじゃあないですか。 その言葉が真実なら、俺の今の言葉は本心のはずですよね」
「・・・・・・・・・っ!」
「俺にも・・・最期だけは本当のこと言わせてくださいよ。
本当に俺は誰も恨んじゃいない―――浮竹隊長も、そして・・・『この身体を与えてくれた』死神も。
・・・そのおかげでまた、この娘・・・千沙と出会えたんだから・・・」
そうだ、最初から嘘なんてつかなければよかったんだ。
最初から素直に―――復讐のために強くなったと、いいや―――我執のために強くなったと認めていれば、自分の本当の気持ちに・・・
・・・「千沙と生きたい」という気持ちに気がつけたのに。
――――――ザアアァァァ・・・・・・
口の筋肉、声帯が融解し、舌が液状になる寸前に八峰はそういって消えて逝く。
やがて歯も大きな頭蓋と小さなそれも、ゴブゴブと小さな音を立てて融けて。
たったか弱い一人の、大きな大きな命。村を一つも犠牲にしてやっとのことで守られた命たち。
彼らの命の背後には、連綿とした無数の命の歴史が広がって、支えていた。
それが、たった、ささやかな音を立てて、いとも簡単に消えていってしまう。
罪をも洗い流すような激しい雨だけが、不協和音の響いていた静寂を迷うことなく縦に切り裂いてゆく。
立ち尽くす浮竹の目の前には、血よりも深い紅の池がだだっ広く拡がっていた。
バチャ、バチャ・・・先程まで彼らが存在していた場所まで覚束無い足取りで歩いて行き、そして浮竹も同様に、崩れ落ちた。
危うい存在ではあった。摂理を逸してはいたものの、だがしかし彼らは存在していたのだ。生きていた。
だがそれは死を凌駕したうえでの生であって、そう、・・・正常ではない。摂理を逸脱した者はやがて多大なる罰を受ける。
その時に引き裂かれる心は絶対に、更なる非平衡を生み出す。憎しみと復讐心に、拍車をかける。絶望する。渇望する。
力を、求める。
四つんばいになりながら、浮竹は硬く握り締めた両の拳を池に叩き付ける。
仕方なかった。
聡明である千沙も、あの時すでにおかしかったのだ。賢い彼女であれば「やりなおせる」「幸福は八千代に約束されている」といった
ような『いかにもな』父の嘘に気がつかないはずはないのだから。
仕方なかった。
志波の情報や今までの状況を鑑みて、全てを悟ってしまった。相馬八峰はあの悲劇の日、虚に襲われて消息を絶った。虚は自爆をする
でもなく、八峰をすぐに殺すようなことはしなかった。ということは考えられる状況としては、あの仇の虚に彼は取り込まれた・・・
別の言い方をすれば『捕食』されてしまったのだろう。死神捕食型の虚がいるとは何度か聞いたことがあるが、彼のあの仮面紋を見た
ときにそれだと確信した。
その後どのようにして彼が意識を取り戻しなおかつ破面化したかは謎だが、しかしこの短期間で完全な成体になることなど聞いた
ことが無い。
『本当に俺は誰も恨んじゃいない―――浮竹隊長も、そして・・・この身体を与えてくれた死神も』
・・・誰だ・・・。
誰だ・・・。
誰だ。
誰だ、誰だ。誰だ、誰だ、誰だ誰だ誰だ誰だ。
誰だ! 誰だ!! 誰だッッ!!!
だ れ だ ! ! !
人 工 的 に 破 面 を 創 造 し た 死 神 は ―――――― ! ! !
バシャンッ!! バシャッ、バシャンッ!! バンッ!!
ばしゃっ・・・!
「――――――く、そっ・・・! っ・、く・・・ッそォォオォオオオオオオオッッ!!!!」
何度も振り下ろされる拳。叩きつけられて跳ねる摂理を犯した内臓の液体は自然の法則に逆らうことなく浮竹の白い頬を染めてゆく。
どろどろと質量のある緋色の湖の真ん中で血みどろになりながら浮竹は一人、慟哭に暮れた。
――――――人は誰しも、雨を抱えているのだ。
――――――そしてそれは止むことはない。
――――――一度降り出した雨を止めることは、宛ら我執を捨てることのように、甚だ難しいことである。
続
*****************************************************
*第53話でした。お疲れ様でした。
いかがでしたでしょうか―――少しでも、相馬一家の末路、そして彼らと浮竹隊長の末路を『悲しいなぁ』と思って
くださればもう八千代篇の目的は達成されたと言っても過言ではないと思います。
*八峰は、入隊当初は本当に、十字傷の虚への復讐だけが目的でした。しかし再び十三番隊で幸福を得て、今度はその
幸福を遠ざけるかのように『空言』を使いだします。そしてその幸福を遠ざけるような過剰な嘘は八峰に『復讐の影
は去った、決別した』と信じ込ませる事態になってしまいます。ここまでが、長屋急襲討伐に向かうまでの八峰の
内心でした。
しかしいよいよ討伐隊編成の際、長年沸いていた復讐への意志が目覚めてしまいます。無論、千沙が言っていたように
あの日あの時間は長屋に娘がいないことを八峰は知っていました。が、『もう無力なんかじゃない。仇をとれる』と
一世一代の大嘘をつき―――十字傷の虚に捕食されました。
十字傷の虚は八峰の村、日酉村を急襲したときのリーダーである虚です。そして五番隊が取り逃がした虚です。
もっとも―――もうお気付きの方はいらっしゃると思いますが、それは藍染が創った改造虚です。
『誰にも邪魔されない、完全催眠で姿の隠れた研究棟が欲しい』・・・その欲求だけで、藍染は大規模な戦をわざと
仕組みました。改造虚を捕食型にしたのはそれだけではちょっと物足りないので、『虚がデータ搾取可能な存在で
あるか』の実験も兼ねて、そいつに村を襲わせて、自らは悠々と討伐に向かい、大衆の前で鏡花水月を振るう。
結構その虚が強かったので『十字傷という目印かつ、良い誤魔化し』の傷を付けて『わざと』取り逃がしたのです。
こうして現在、藍染が住まう研究棟が出来上がりました。完全催眠のおかげでこの研究棟は周囲の住民に見える
ことはなく、幾千の血が流れ、怨念が染み付き、再生することのない不浄の地として尸魂界が放棄した場所に
なっています。
また、八峰のセリフ「母さんも、皆もここにいる」というやつですが、十字傷の虚は八峰の妻・相馬佳代をはじめ
村人を喰らいつくし、データを取り込んでいるので、皆の魂は破面八千代の中にあったということになっております。
*他にもまだまだ書きたいことが一杯。笑
この八千代篇、プロットはそこそこ1,2時間で書いたものなのにこんなに長くなるとは・・・;
特に浮竹隊長についてはまだまだ書いていないので、また54話にでも書きたいと思います。
さて、次回はようやくサイド復帰です。お待たせしました。
浮竹はどうなったのか、そして海燕は。
憎しみの原点はいよいよ具体的に姿を現し始めます。・・・これまた悲しいお話ですが、応援いただけると嬉しいです。
2:31 2010/10/26 琴